[#表紙(img/表紙.jpg)] 海から見た戦国日本 —— 列島史から世界史へ —— 村井章介 目 次[#「目 次」はゴシック体]  第1章[#「第1章」はゴシック体] 一六世紀、または世界史の成立  第2章[#「第2章」はゴシック体] 蝦夷地と和人地  第3章[#「第3章」はゴシック体] 古琉球の終焉  第4章[#「第4章」はゴシック体] ヨーロッパの登場とアジア海域世界  第5章[#「第5章」はゴシック体] 日本銀と倭人ネットワーク  第6章[#「第6章」はゴシック体] 統一権力登場の世界史的意味     あとがき     参考文献 [#改ページ]   【第1章[#「第1章」はゴシック体]】 一六世紀、または世界史の成立 [#改ページ] 【年表[#「年表」はゴシック体]】 [#ここから2字下げ] 1368 明の成立 1392 李氏朝鮮の成立 南北朝の合一 1402 足利義満、明の建文帝の冊封をうける 1402 永楽帝、建文帝を倒して帝位につく (靖難の変) 1404 第一次勘合船、明に渡る (勘合貿易の開始) 1405 鄭和の大航海 (〜1433) 1419 朝鮮軍、対馬を襲撃 (応永の外寇) 1422 尚巴志、琉球の三山を実質的に統一 1456 コシャマインの戦い (〜1457) 1467 応仁・文明の乱 (〜1477) 1470 尚円、琉球王となる (第二尚氏王朝の成立) 1510 朝鮮の三浦で倭人の暴動 (三浦の乱) 1511 ポルトガル、マラッカを占領 1521 マゼランの艦隊、フィリピンに到達 1523 寧波で細川船と大内船が衝突 (寧波の乱) 1526 このころより双嶼、密貿易の基地となる 1526 博多商人神屋寿禎、石見銀山を発見 1533 灰吹法、石見銀山に定着 1540 ポルトガル人、浙江省の沿海に誘引される 1542 鉄砲、種子島に伝わる (1543 説あり) 1545 王直、博多商人を双嶼に誘引 1547 第一九次勘合船、この後日明国交絶える 1547 ザビエル、マラッカで薩摩人アンジローと出会う 1548 王直、明軍に双嶼を追われ、平戸に本拠を移す 1549 ザビエル、鹿児島に来てキリスト教を伝える   (第6章扉裏に続く) [#ここで字下げ終わり] †列島の周縁と世界史[#「列島の周縁と世界史」はゴシック体]  これから私が語ろうと思うのは、一六世紀から一七世紀前半にかけての、日本列島および周辺地域・海域の歴史である。  この時代は、日本史の流れでいえば、社会分裂と戦乱が長期におよんだ戦国の乱世のなかから、信長・秀吉・家康という「天下人」が出現し、やがて〈徳川の平和〉の開始で幕を閉じる、大きな変動期である。  それは、政治的にとらえれば、中世的な権力の分散状況が克服され、相当程度中央集権的な官僚機構を備えた「幕藩制国家」が生み出される過程だったし、経済的にとらえれば、めざましい生産力の拡大が人口や耕地面積の急増をもたらし、それらが日本の社会を根本から変えていく過程だった。「中世から近世への移行」と特徴づけられるこの時代の画期性は、だれの眼にも明らかだろう。  しかしこの変動の歴史的な意味を汲みつくすには、右のような「一国史」的な見方だけでは不十分だ。日本列島をとりまくはるかに広い世界の文脈に即して、列島にうち寄せる歴史の波をとらえなければならない。  そのためにこの本では、戦国の英雄たちが活躍する日本の中央地帯の歴史については、くわしく述べることをしない。むしろ蝦夷地・琉球・対馬といった列島の周縁部に目をむけ、そこで起きている事件を、世界史的な文脈のなかで理解することを試みたい。さらには、中国大陸における明から清への交代に象徴されるアジアの地殻変動や、ヨーロッパ勢力のアジアへの出現というあらたな歴史的経験のなかに、その不可分の一部として、列島の歴史を位置づけることを試みたい。  ひろい眼で見れば、この時代は、人類史上はじめて世界史と呼べるような地球規模の連関が、端緒的に生まれた時代だった。むろん従来より、そのことの世界史的意味は、ヨーロッパの歴史学によって、「地理上の発見」とか「大航海時代」とかいうことばとともに語られてきた。  そこでの「世界史」とは、エジプトから始まって、ギリシア・ローマの古典古代、中世ゲルマン世界、ルネサンスそして「地理上の発見」、さらにはイギリスの産業革命と世界市場制覇、そして近代へ、といった流れで理解されていた。のちに「ヨーロッパ中心史観」として批判の対象となるこの見方は、「欧米」を目標に近代化を急いだ一九世紀の日本に直輸入された。それは日本人の歴史認識に大きな影響を与え、われわれもまた世界史をそういう眼で見てきたことはいなめない。  しかしほかならぬ「欧米」の内部から、ヨーロッパ人の歩んできた歩み——それ自体が極端に理念的な歴史理解であることは、エジプトやギリシアやローマの黄金時代における北西ヨーロッパのようすを想像してみれば明瞭なのだが——イコール世界史だなどというのは、まったくの思いあがりだという批判がなされている。  近年では、ヨーロッパ人の他者認識におけるステロタイプが自身をも呪縛するくびきであることをえぐり出したE・サイードの『オリエンタリズム』などは、印象的な仕事だったが、ここでは、本書のテーマに直接かかわるI・ウォーラーステインの「世界システム」論をとりあげてみよう(以下は川北稔訳『近代世界システム——農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立』㈵・㈼、岩波現代選書、一九八一年による)。 †ウォーラーステインの「世界システム」論[#「ウォーラーステインの「世界システム」論」はゴシック体]  ウォーラーステインによれば、地球上の各時代には、地球規模にはいたらない多くの「世界システム」が、ヨーロッパのそれをも含めて存在した。世界システムには、「その領域全体にいちおう単一の政治システムが作用している」世界帝国と、「全空間(ないしほとんどの空間)を覆う単一の政治システムが欠如している」世界経済との二種類があった。  近代以前の世界経済は構造的にきわめて不安定で、まもなく世界帝国に転化してしまうかまったく分解してしまうか、いずれかの道をたどった(㈼二八〇頁)。しかし一六世紀にスペイン・ポルトガルが地球を一周して、地球規模の連関を作りあげたことを端緒に成立した、近代世界システム=資本主義世界経済は、主導権こそイベリア両国からオランダ・イギリス(とくに後者)そしてアメリカへと移ったものの、システムそのものは五〇〇年間も存続し、発展をとげながら現在にいたっている。  数ある世界システムのなかで、資本主義世界経済のみが他に例をみない生命力を保ちえたのは、内部に分立する政治システムとしての国民国家ないしその連合体が、その支配領域に対応する自己完結的な経済システムを作ることができず、どの国家や国家連合の経済も、資本主義世界経済に組みこまれるかたちでしか存立できなかったからだ。「これこそ、資本主義という名の経済組織が有する政治面での特性にほかならない。「世界経済」がその内部に単一のではなく、複数の政治システムを含んでいたからこそ、資本主義は繁栄できたのである。」(㈼二八〇頁)  したがって個々の国民国家には栄枯盛衰があっても、資本主義世界経済そのものは発展を続けることができた。そのよい例は、イギリスの産業革命とイベリア両国の辺境化であろう。そして第二次世界大戦後のコメコン・ブロックが、社会主義圏の経済的自立を掲げながら、結局資本主義世界経済の「田舎」という状態から離脱できなかったことは、最近のロシアの姿を見れば明らかだ。このことは、ウォーラーステインの見通しのたしかさを証明している。  資本主義世界経済は、一六世紀、スペイン・ポルトガルの地球規模の活動によって端緒的に成立したが、その段階で地球をくまなく覆っていたわけではない。 [#2字下げ]ヨーロッパ世界経済は、一六世紀末までには北西ヨーロッパと地中海のキリスト教徒支配地域のみならず、中欧やバルト海地方も包含していた。それどころか、……新世界の一部をさえ含んでいたのである。つまり、スペインとポルトガルが有効な支配を確立していた地域はすべて含まれていたのである。……(しかし)インド洋地域は含まれない。一時期のフィリピン諸島を除いて、極東も入れるべきではないし、オスマン・トルコ帝国も含めない方がよい。ロシアもせいぜいごく短い期間、その周辺部が含まれた程度で、全体としては含まれていなかったというべきである。(㈵一〇二頁) 「ヨーロッパ世界経済」が「スペインとポルトガルが有効な支配を確立[#「有効な支配を確立」に傍点]していた地域」であるなら、それはむしろ両国の政治システムのもとにある「世界帝国」ではないか、という疑問が生じる。やはり政治システムの領域をはるかに超える「世界経済」の本格的登場は、産業革命を待たなければならないのであろう。  ただここで確認しておくべきことは、ウォーラーステインがアジア地域を注意ぶかく「ヨーロッパ世界経済」から除外していたことである。その根拠は、アジアには独自の世界システムが存在したという事実にあった。 [#2字下げ]ポルトガル人はアジアに来て、そこに繁栄している「世界経済」を見出したのである。彼らはそれをいささか改良し、その努力への報酬としていくらかの商品を持ち帰ったのであり、アジアに実在した「世界経済」の社会組織にも、その上部構造としての政治機構にもほとんど手をつけることはなかったのだ。(㈼二四三頁)  ウォーラーステインは、一六世紀シナ海の海上貿易に関しては、C・R・ボクサーの業績に依拠しながら、ポルトガル人は「倭寇の手にあった既存の商業網を簒奪したにすぎない」と指摘し(㈼二四一頁)、他方一七世紀日本の対外政策に関しては、ボクサーの意見に異をとなえて、国内産業の発達の結果中国産の絹を必要としなくなり、「いまや鎖国することも可能になっていた」と述べる(㈼二五四頁)。  これらの断片的な記述にはいくつか誤りもふくまれている。しかし、かれの著述の目的が「ヨーロッパ[#「ヨーロッパ」に傍点]世界経済」の成立を描き出すことにあった以上、それはやむをえないことである。ヨーロッパ世界経済から自立したアジアの世界システムを正面からとりあげ、その構造と論理を明らかにし、そのうえでヨーロッパ世界経済の影響を測定することは、われわれアジアの研究者こそがはたすべき課題だといえよう。 †日本列島周辺の一六世紀[#「日本列島周辺の一六世紀」はゴシック体]  一六世紀、イベリア両国が地球を逆まわりしてアジアで出会ったことにより、有機的連関で結ばれた地球規模の「世界」が、ヨーロッパの主導権のもとで端緒的に成立した。その波は、確実にユーラシアの東の涯にある日本列島にまでうち寄せた。「世界史のなかの日本」という命題は、このとき真の意味をもって成立したのである。  ヨーロッパ人の「新世界発見」のもくろみがどの辺にあったかは、ポルトガル人メンデス=ピントがその著『東洋遍歴記』のなかであけすけに語っている(第一四三章)。 [#2字下げ]この島(琉球)についてここで簡単に何か話してみたい。それは、いつか我らの主なる神がポルトガル人を鼓舞して、第一にかつ主としてその聖なるカトリックの教えの高揚、発展のために、そして次にそこから手に入れることのできる多くの利得のために、この島の征服を意図させることを思し召すような場合に、どこから踏み入るべきかを、また、この島の発見によって獲得される多くのものを、そして島の征服がいかに容易であるかを、知らんがためである。  第一にキリスト教の伝道のため、第二に貿易の利得のため、ある地を征服することを、神がポルトガル人に命じたときに備えて、どこから侵入すべきか、征服後に何が獲得できるか、そして征服がいかに容易かをひろく知ってもらうために、その地について語る、というのだ。そしてスペイン人がインディアスで行なったことは、それを地でいくものだった(ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』)。  しかしアジアにおいては、なりゆきはまったく異なっていた。ポルトガル人がアジアでも植民帝国の形成を夢みていたことは、右に引いた琉球についてのピントの一文からも明らかだが、現実にポルトガルがアジアにおいてなしえたことは、すでにアジアで活発に機能していた交易ルートへの割りこみと、いくつかの戦略的・経済的な拠点の確保を出るものではなかった。インディアスにおいてのように、現地の経済構造を根底から変更し、ひいては人口の激減をすらひきおこすような事態は、アジアでは起きなかった。  したがって、本書の立てるべき問題はこうである。  ヨーロッパ人の出現以前、日本列島をふくむ東アジア地域にはどのような世界システムが存在し、それはどのような政治と経済の連関のうえになりたっていたのか。それが「ヨーロッパ世界経済」との接触によって、どのように変貌していったか。  この地域の世界システムの中心に中国が位置したことはいうまでもないが、その辺境部にある日本やその周辺は、中国から一定程度自立したサブ・システムを形成または指向していたと考えられる。その構造と論理は、中国中心の世界システムとどこが共通し、どこがちがうのか。また、このサブ・システムは、「ヨーロッパ世界経済」との接触においても、独自の様相を示すと予想されるが、その具体像はどうか。  ところで五年ほど前、荒野泰典・石井正敏と私は『アジアのなかの日本史』と題する全六巻のシリーズを編集し、その第一巻「アジアと日本」の冒頭に、シリーズ全体の序論的意味をこめて、「時期区分論」を三人の連名で執筆した(東京大学出版会、一九九二年刊)。そこでは、アジアのなかでの日本の歩みを、一国史としての日本史でもなく、固定的な東アジア世界の歴史でもない、伸び縮みする〈地域〉の歴史としてとらえ、そのBC三世紀から一九世紀末までを一〇の時期に区分するという試論を提示した。これは、中国中心の世界システムに包みこまれたサブ・システムの歴史を描こうとする試み、といいかえてもよい。  そこで私たちは、時期区分を行なうための基本的な視角として、つぎのようなものを設定した。 [#2字下げ]列島地域に対する対外的インパクトが比較的弱く、安定的な通交関係が存続した相対的安定期[#「相対的安定期」に傍点]と、安定期を通じて蓄積された矛盾が表面化して、対外的緊張のもとで急速に交通のありようが変貌し、それが地域内の政治・社会の状況と密接にからみあう移行期ないし変動期[#「移行期ないし変動期」に傍点]とを識別し、双方が交互にあらわれる脈動《パルス》として、列島地域の史的展開をとらえることを試みたい。(一一頁)  精緻な理論で組立てられたもろもろの発展段階論とくらべると、きわめて単純な論理ではあるが、伸び縮みする〈地域〉の歴史といったものは、一方向的な「発展」の論理ではとらえきれないと思ったのである。  この視角から設定された第�期と第�期はつぎのようなもので、いうまでもなく前者が相対的安定期、後者が移行期・変動期である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  � 一五世紀はじめ〜一六世紀前半——冊封体制の完成と勘合貿易システム  � 一六世紀前半〜一七世紀末——倭寇的状況と新秩序の模索 [#ここで字下げ終わり]  前述のように第�期は、㈵〜�のうちの第八番目という以上に、「世界史との出会い」という特別に大きな画期である。しかし、一六〜一七世紀のアジアを見た場合に、ヨーロッパが出会う相手となったことだけが、この時期のアジアが世界史的文脈のなかで担った役割ではない。むしろアジア自身のなかで、この時代には大きなうねりが、ヨーロッパをかならずしもふくまないかたちですでに生じていた。そのなかにヨーロッパ勢力の先端部分が食いこんで、かれらもアジア的文脈のなかでそれなりの重要な役割をはたす、といった見方が必要である。  もうすこし具体的にいえば、最初にふれた日本史における統一権力の登場、中世から近世への移行という事態も、中国における明清交代という世界システムの激変と、共通の性格をもつものと考えるべきではないか。  その本質をひとことでいえば、世界システムの辺境から軍事的な組織原理で貫かれた権力があらわれ、あらたな生産力を獲得し、やがては中華に挑戦して崩壊させてしまう、という事態である。江戸幕府のブレーン林家が使った「華夷変態」ということばは、それをみごとに要約している。  豊臣秀吉はこの挑戦に失敗して自滅への道をあゆみ、秀吉を倒した江戸幕府は軌道修正に腐心することになるが、挑戦にあざやかに成功して中華を併呑したのが、女真族の後金(のち清)であった。このようなアジアの巨大なうねりに重なるかたちで、ヨーロッパ勢力のアジア進出、地球規模の関連性の形成も生起した。だからアジアからの眼、ヨーロッパからの眼の両方で見ないかぎり、この時期のアジアの動きのもつ世界史的意味をとらえつくすことはできない。 †東アジアの世界システム[#「東アジアの世界システム」はゴシック体]  右のような第�期における激動の前提条件は、相対的安定期である第�期において作られた。この時期は、中華帝国を中心とする東アジアの世界システムが、ひとつの完成した姿をあらわした時期といえる。そのなかで日本も、五世紀以来ひさびさに中国と「冊封」と呼ばれる正式の外交関係を結ぶことになった。  一五世紀の初頭、明の永楽帝(在位一四〇二〜二四年)は、初代洪武帝の嫡孫である甥建文帝を倒して帝位についた(靖難の変)。かれは簒奪者という非難をかわすためにも、対外的にきわめて積極的な姿勢をとった。即位後まもなく、建文帝による朝鮮国王・日本国王冊封を再確認し、ここに明の建国以来試行錯誤をくりかえした両国との関係は、ようやく安定した秩序を実現した。  また永楽帝は、一四〇五年から、イスラム教徒の鄭和を将とする大船団を七回にわたってインド洋方面へ派遣し、その先鋒ははるか東アフリカにまで達した(〜一四三三年)。中国史に例を見ないこの大事業は、遠征先の征服よりは、諸国の王を明に入貢させて貿易関係を開くことを目的とするもので、中国中心の世界経済の創出をめざしたものといえよう。  注目されるのは、この時期には明の周辺諸国の側でも、内部対立を克服して政治の安定が実現したことである。日本では、一三九二年に南北朝の内乱が終息し、足利義満による「公武統一政権」が確立した。朝鮮半島では、辺境出身の武人李成桂が高麗に替わってあらたな王朝を創め、五〇〇年におよぶ李氏朝鮮王朝の基礎を作った。琉球でも、一四二〇年代に沖縄本島にあった中山・山南・山北の三小王国(三山)が中山の尚巴志によって統一された。ベトナムでも、一四二八年に黎利が後黎朝を開いてから安定期を迎えた。  東アジア諸国間の関係は、明の皇帝を君、諸国の王を臣として結ばれる冊封[#「冊封」に傍点]関係を中核としながら、それぞれの国家が領域外との交通関係を独占することを建前とした。冊封とは臣下を領土に封ずるという意味で、中国内部の〈皇帝—臣下〉の主従関係にもとづく封土授与を、諸国の君長にまでおよぼすという法的形式をとるが、その実体は国家間の外交関係であった。  冊封の体制のもとでは、皇帝および諸国の王のみが外交に参加する資格をもち、王の臣下にはその資格がなかった。これを「人臣ニ外交ナシ」と表現する。そこで、外交使節が皇帝や王の派遣したものであることを証明する渡航証明書が必要となるが、これが勘合[#「勘合」に傍点]である。 [#挿絵(img/fig1.jpg)]  対日関係を例にとると、勘合は明皇帝の一代ごとに一〇〇通が交付され、日本側はそれを一船に一通ずつもたせ、寧波の浙江布政司と北京の礼部で照合原簿である底簿と突き合わせられた。皇帝が交代すると、未使用分は明に返納するのがきまりだった。勘合は各皇帝固有の年号を付して、永楽勘合・宣徳勘合などと呼ばれた。  また明は、冊封・勘合に対応する国内政策として、海禁[#「海禁」に傍点]を施行し、国家の公的使節として以外に自国民が海外へ赴くことを禁止した。はじめ海禁は、明初の反国家勢力が倭寇と結びつくのをおそれて、沿海人民の下海を禁じたことから始まったが、やがて国家による沿海人民の掌握と対外関係の独占に目的が拡張されて、規制内容・罰則ともにしだいにきびしくなった。  冊封・勘合のシステムのもとで唯一合法的な貿易の形態は、諸国から明への朝貢と明から諸国への回賜(朝貢へのお返し)というものだった。そして日明間で行なわれたこの形態の貿易が、いわゆる「勘合貿易」である。勘合船は、一四〇四年から一五四七年までの約一世紀半に一九回、明に渡航した。  勘合船がかならず室町殿(室町幕府の首長のことで、多くの場合将軍)の名義を必要としたのは、明皇帝から「日本国王」に冊封された室町殿しか対明通交の資格がなかったからである。その名義をもたない貿易船は海禁によって海賊とみなされた。  以上のような冊封・勘合・海禁の三点セットは、国家による対外交通管理のもっとも完成された形態といえる。これは明瞭に政治的なシステムであるが、冊封を受けた諸国は基本的に独立国であって、その領土内に明が有効な支配を確立していたわけではない。「冊封体制」と呼ばれるこのシステムは、諸国の王を皇帝の臣下とするという世界帝国的な擬制をとりながら、実態としては中国を中心とする貿易システムとして機能した。その意味では世界経済の性格をも帯びていたのである。  明の周辺諸国は、このような明中心の秩序体系を、国際的にも国内的にも受容した。自国民の対外交通管理を明にならって実行し、また周辺諸国相互間の関係においても、勘合類似の制度を創出して、副次的な通交システムを形成した。日本は諸国中でいちばんいい加減にしかそうした制度を実行しなかったが、それでも「日本国王使」の名義は、明や朝鮮との通交において特別の重みがあった。  そもそも中国の冊封を受け入れたこと自体が、五世紀以来絶えてなかった異例であり、いくら東辺の列島を領土とする国家とはいえ、孤立しては生きていけない状況が生じてきたことを示している。 †体制のゆるみ[#「体制のゆるみ」はゴシック体]  右のように一五世紀の東アジア地域には国家的な秩序が貫徹しているかにみえるが、その秩序は国の枠を超え出ようとする人々の動きを根だやしにしたうえに構築されたものではなかった。海禁や勘合の制度自体が、一四世紀に国際問題となったいわゆる倭寇(国境を超えて海賊活動を展開する海民集団)の動きに対して、その一部を制度内にとりこみ、なおはずれた部分を軍事的に封じこめることで、なりたっていた。  中国—東南アジア間の中継貿易による琉球の国家的統一と繁栄や、西日本の多様な勢力の参加による朝鮮通交の活況は、そんな不安定な土壌に咲いた花だった。  やがて世紀の末ころから、公的外交秩序崩壊へのきざしがあらわれてくる。もともと国家的統合の弱体だった日本で、応仁・文明の大乱の結果、幕府・朝廷という中央権力が決定的に没落すると、対外関係設定への国家レベルの規制はほとんどなくなり、大内氏が朝鮮通交に圧倒的なヘゲモニーを確立したり、島津氏が琉球通交の掌握をねらったりという、地方権力独自の動きが目立ってくる。明に対する体裁上、国王通交の形態が守られていた対明勘合貿易も例外ではなく、一四六〇年代以降、細川氏=堺商人と大内氏=博多商人との争奪の対象になってしまう。蝦夷地には安藤氏の勢力下にある和人勢力が進出し、交易をめぐってアイヌとのトラブルが頻発するようになる。  安定した国家間秩序を背景に実行されていた使節の往還とそれにともなう公的貿易にも、かげりが見えはじめる。使節行の重点は外交から商取引へと移ってきており、明は日本や琉球からの、朝鮮は西日本の諸勢力からの使節の受け入れに、しだいに消極的になっていった。そうなれば、思い通りの利益をあげられなくなる使節側に、不満が鬱積するのはさけられず、倭寇的な行動に出て受け入れ側に脅しをかけるという事態も起きてくる。 †三浦の乱と対馬[#「三浦の乱と対馬」はゴシック体]—朝鮮関係[#「朝鮮関係」はゴシック体]  一六世紀初頭、前世紀のはじめ以来朝鮮半島南辺に形成された倭人の居留地=都市である「三浦《さんぽ》」(慶尚道の乃而浦〔薺浦〕・釜山浦・塩浦三港の総称)では、朝鮮側との交易をめぐって、監督官の融通を欠く対応に不満をつのらせていた(以下この項については、村井『中世倭人伝』岩波新書、一九九三年を参照)。三浦と直結する対馬でも雰囲気は同様だった。  ついに一五一〇年、三浦の倭人たちは、対馬島主宗|盛順《もりより》の代官宗国親の援軍を得て、武力蜂起を起こした。倭軍は釜山浦|僉使《せんし》李友曾を殺し、薺浦僉使金世鈞をとりこにし、周辺各地を掠奪しつつ、有利な条件で講和にもちこもうとしたが、朝鮮側は講和に応じず、逆に反攻して、倭人を三浦から追い出してしまった。倭人の意図は完全に裏目に出て、営々として築いてきた朝鮮通交の諸権益を、貴重な居留地ともども、ことごとく失うはめになった(三浦の乱)。  三浦の乱の二年後、対馬の必死の努力が実って、また朝鮮側も断交状態を続けることが本意ではなかったので、「壬申約条」が結ばれ、薺浦が再開された。しかしこれはたんなる入港場としてであって、倭人の居留はきびしく拒絶された。  一五二一年に入港場は釜山浦を加えて二カ所となったが、一五四四年に慶尚道でまたも倭寇事件が起きて再度断交する。一五四七年の「丁未約条」による復交時には、窓口は釜山一港になっていた。これが江戸時代の釜山倭館につながり、〈四つの口〉(長崎・対馬・薩摩・松前)のひとつとして、対馬藩が幕府からの委任のもとに対朝鮮関係を管理する場となってゆく。  壬申約条によって対馬—朝鮮間の公に認められた交通の規模は、大幅に縮小されてしまったが、実際の交易の規模はさほど減少しなかったようである。それは密貿易のほかに、対馬が仕立てたにせ[#「にせ」に傍点]の「日本国王使」を活用することで可能となった。当時対馬は、「日本国王使」の資格証明に必要な国王の印を偽造して所持しており、偽作した外交文書にこの印を捺して使者にもたせたのである。壬申約条の締結を実現させたのも「日本国王使」弸中《ほうちゆう》だったが、その後「日本国王使」は対朝鮮貿易(とりわけ銀貿易)の規模を維持するための方便として利用されてゆく。  さらに対馬は、一五世紀段階で日本の諸勢力に朝鮮から付与されていた朝鮮通交の権利(朝鮮の官職をもらっている受職人、年に何艘という貿易船を送る権利を意味する歳遣船、外交文書の署名に捺して有資格者であることを証する図書などがある)を、有償・無償でかきあつめ、名目上の権利者の名称で朝鮮通交を続ける、という詐術も弄している。  対馬が朝鮮通交の確保に知恵をしぼっていたこのころ、豊臣秀吉の明侵攻作戦と、その手段としての朝鮮侵略計画が本格化していく。一五八九年、宗|義智《よしとし》は、朝鮮に明侵攻の道を仮ることをもとめた日本国使臣の副使に起用され、正使|景轍玄蘇《けいてつげんそ》とともにソウルにいたった。戦争になることをさけたい使者は、秀吉の要求を通信使派遣要請にすりかえて朝鮮に伝え、実際、通信使黄允吉・金誠一をともなって帰国したが、秀吉の専制的な意志の前ではこうした画策もむなしかった。結局一五九二年に始まる戦争で、宗氏は秀吉軍の先鋒を勤めざるをえなくなってしまう。 †寧波の乱と対明関係[#「寧波の乱と対明関係」はゴシック体]  明との関係においても、対朝鮮関係の推移とよく似た様相が見られる。後期の勘合貿易が細川・大内両氏の争奪の的になっていたことはすでに述べたが、この対立は、ついに明が日本に開いていた入港場|寧波《ニンポー》における騒乱事件を引き起こした。  一五二三年、大内義興の派遣した遣明使|謙道宗設《けんどうそうせつ》らが、一五一三年に第一六次遣明使から大内氏が奪取していた正徳(一五〇六〜二一年)勘合を携えて、寧波に入港した。それを追いかけるように、将軍足利義晴・管領細川高国派遣の遣明使|鸞岡瑞佐《らんこうずいさ》らが入港した。鸞岡らが携えていたのは、すでに無効となったはずの弘治(一四八八〜一五〇五年)勘合だったが、副使の中国人宋素卿は、検査官に賄賂を使って、大内船より先に受け入れさせた。憤激した大内側は、鸞岡と明側の指揮袁※[#「王+進」、unicode74A1]を殺し、細川船を焼いた。さらに寧波の市街地にとびだして放火・略奪し、寧波から西の紹興方面へむかい、ついに船を奪って東シナ海に逃げ去った(寧波の乱)。  事件の経過は三浦の乱とだいぶちがっているが、底流には勘合貿易の縮小をねらう明側の動きがあって、三浦の乱前の朝鮮政府の姿勢と共通している。秩序を無視した武力の行使という日本側の姿勢も、両事件を貫くものである。  寧波の乱後、勘合貿易は大内氏の独占物となり、一五三八年に第一八次、一五四七年に第一九次の遣明使が送られた(いずれも二年後に北京にいたる)が、一五五一年に大内義隆が臣下の陶隆房に攻められて大内氏が滅んだのと道づれに、遣明使も廃絶してしまう。  三五年ののち、豊臣秀吉が明の征服を考えはじめたとき、客観的にみてもっとも重要な外交課題は、絶交状態の続いていた対明国交をどのようなかたちで復活させるかにあった。実際の秀吉のやり口が国際感覚を欠く乱暴なものだったことはいうまでもないが、緒戦の快進撃が挫折したころから、日本側の講和条件に「勘合」復活が登場してくることは、注目される。対明関係の安定が日本にとって肝要であり、そのために一六世紀前半以前の勘合貿易時代の遺産が無視できないものであったことが、暗示されているからだ。  戦争が終ったのち、天下をとった江戸幕府が、日明関係の復活のためにあらゆる外交手段を尽くしたのも、同様の動機にもとづくものだった。しかし、後期倭寇と朝鮮侵略戦争の苦い記憶は、ついに中国をして対日復交に踏みきらせなかった。江戸時代の対中国関係は、長崎に来航する中国民間の貿易船との商取引にとどまり、近代にいたるまで正式の国家間関係は成立しなかったのである。 †倭寇的状況[#「倭寇的状況」はゴシック体]  一六世紀になると、シナ海上の倭寇の動きも復活するだけでなく、一四世紀の前期倭寇にはなかった新たな相貌を帯びはじめる。海禁によって海外活動が非合法化された中国人商人が、下海して直接密貿易に携わるようになり、かれらを中心にシナ海をとりまく地域で活動する交易者たちが結集した集団、これが倭寇の実体となってゆくのである。一四世紀段階の倭寇と区別して、これを「後期倭寇」と呼んでいる。  かれらは中国大陸沿岸の密貿易ルートを通じて南海方面の物資を中国・日本・朝鮮へもたらしたから、琉球の中継貿易にとってもっとも手ごわい競争相手となった。一七世紀の初頭に琉球の国家的自立が奪われるにいたる種子が、ここに蒔かれた。  明や朝鮮は海禁を強化したり海防をひきしめることで倭寇に対抗しようとしたが、倭寇はむしろ郷紳(地方官人を中核とする在地有力者層)や経済発展で財力をたくわえた豪商と結んで、明や朝鮮の国内経済へくいこむ勢いをみせた。  一六世紀前半までなら、明や朝鮮は大内氏を通じて日本列島の状況をある程度つかむことができた。その大内氏が滅んでしまったいま、明や朝鮮は手探りで、疑心暗鬼に駆られながら、倭寇対策に腐心しなければならなかった。  しかも倭寇を構成する人間類型はますます複雑なものになっていった。西からはポルトガルを先頭とするヨーロッパ勢力が腕力にものをいわせて密貿易ルートに参入してくる。一五一一年、アルブケルケ率いるポルトガル海軍がマラッカを占領し、伝統ある港市国家マラッカが栄光の歴史を閉じたことは、アジアとヨーロッパとの関係のうえで、指標となる事件である。  その後ポルトガルは、東南アジアから華南に進出し、中国大陸ぞいの密貿易ルートに乗って、広東・福建・浙江へと東進する。その過程で日本人とも接触があり、それを通じてキリスト教や鉄砲が日本に伝わった。逆に日本人も、おなじルートを逆進して東南アジアにいたり、「日本人町」と呼ばれる居留地を作るまでになった。徳川家康時代の朱印船貿易は、このような場で活動する日本商人に依拠したものであり、いまだ権力側が主体となった能動的な対外関係の編成とはいえない。  こうして一六世紀のシナ海域では、国家間の合法的な交通にかわって、さまざまな人間集団を包含する〈倭寇的勢力〉が地域間交通の主役となっていった。ものや人間の動きの総体としては、国家的交通の衰退にもかかわらず、未曾有の活況を呈したといってよい。こうした〈倭寇的状況〉こそ、一七世紀に権力的集中をとげたあらたな国家権力——幕藩制国家や清朝——が対決をせまられた相手だった。 [#改ページ]   【第2章[#「第2章」はゴシック体]】 蝦夷地と和人地 [#扉裏(img/map2.jpg)] †「小中華」の世界像と北方[#「「小中華」の世界像と北方」はゴシック体]  日本列島の北方地域は、古くからヤマトの中央国家によって、中華世界の辺境にありながらみずからも「夷」を従える「小中華」であることのあかしとして、位置づけられてきた。  たとえば、七一五年の元日、元明天皇は大極殿に出御して朝賀を受けたが、その場に「陸奥・出羽の蝦夷《えみし》ならびに南島の奄美・夜久(屋久島)・度感(徳之島)・信覚(石垣島)・救美(久米島)等」が列席して、方物(土産)を貢じた(『続日本紀』)。また六五九年に唐にいたった遣唐使は、わざわざ「道奥《みちのくの》蝦夷《えみし》」二人を帯同して天子に会わせ、「これらは毎年本朝に入貢しております」と説明している(『日本書紀』斉明五年七月三日条)。  こうした「小中華」の世界像のなかで、北方は人間世界と人ならぬものの住む異界との境界領域であった。一六世紀にいたってもそうした観念が健在だったことは、つぎの例から知られる。  一五九一年八月に会津の蒲生《がもう》氏郷《うじさと》が陸奥国|九戸《くのへ》城を攻めたとき、松前氏配下の「夷人」が毒矢を手に加勢したが、『氏郷記』はかれらを「其形ハ人間ニテ、身ニハ残所《のこるところ》モナク毛生《けはえ》、恐《おそろ》シ気《げ》ナル風情ニテ、サナガラ牛ニ異ナラズ」と描いている。『平家物語』(巻二、大納言死去)が西の境界領域|鬼界島《きかいがじま》の住人を、「をのづから人はあれども、此土《このつち》の人にも似ず。色黒うして牛の如し。身には頻《しきり》に毛おひつゝ、云詞《いうことば》も聞しらず」と描写していたことを思い出させる。  しかし現実の北方世界は、その先には物怪《もののけ》の住む世界しかない辺境ではなかった。近年、前近代「北方史」研究がめざましく進展し、サハリンや千島を通じたユーラシア大陸との交流や、内海である日本海が周囲の諸地域——北海道、サハリン、沿海州、朝鮮半島東岸、対馬・壱岐をふくむ北九州、そして本州の日本海側——を結びつける役割に、照明があてられてきた。  それは北奥羽や北海道を列島の北の〈果て〉と見るのでなく、その外に広がる広大な世界、北方諸民族の活躍する海や大地とのつながりのなかでとらえようとする視角であり、琉球を日本列島・朝鮮半島・中国大陸沿海部・東南アジア島嶼世界を結ぶ交易ルートの中心としてとらえる見方(第3章参照)と共通する。 †北方世界の交易[#「北方世界の交易」はゴシック体]  海保嶺夫の労作『中世蝦夷史料』『中世蝦夷史料補遺』から、一五世紀以前の北方との交流を示す例をいくつかあげてみよう。  ㈰一一世紀の『今昔物語集』巻三一に、「胡国トイフ所ハ、唐ヨリモ遥《はるか》ノ北ト聞キツルニ、陸奥ノ国ノ奥ニ有《ある》、夷ノ地ニ差合タルニヤ有ラム」とあって、陸奥の国から夷の地を経てさらに進むと、中国北方の胡国へ行きつくことが、すでに知られていた。この認識は、日本海が内海であることを前提にしなければ成立しえない。  ㈪『中外抄』によれば、一一四三年、前関白藤原忠実は「(琵琶などの)宝物は、えぞいはぬ錦[#「えぞいはぬ錦」に傍点]などを袋可レ用ニ、下品生絹を縫レ袋テ入たるなり」と語ったという。のち沿海州方面との山靼《サンタン》交易品として著名になる高級織物蝦夷錦が、このころの京都ですでに知られていた。  またおなじころの和歌に「わが恋はあしか[#「あしか」に傍点]をねらふえぞ舟の/よりみよらずみなみ間《ま》をぞ待《まつ》」というのがある(『夫木和歌抄』巻三三)。  ㈫日蓮のある手紙に、「去《さる》文永五年(一二六八)の比《ころ》、東には俘囚《えびす》をこり、西には蒙古よりせめつかいつきぬ」とあるが、この俘囚蜂起は別の手紙に「ゑぞは死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁《わきまえ》て堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ」とある事件にあたるらしい。  蝦夷管領の安藤氏が蝦夷に殺されるという大事件が起きたわけだが、その直前の一二六四年に沿海州・サハリン方面で、ギリヤークがモンゴルに服して、モンゴルが「骨嵬《クウエイ》」(=アイヌ)を征討するという動きがあり、続いて一二八四〜八六年にも骨嵬征討があった。北海道を中にはさむふたつの動きには、何らかの関連があったと思われる。  ㈬一三五六年の『諏訪大明神絵詞』によると、鎌倉末期に「東夷蜂起して奥州騒乱する事」があったが、これは安藤五郎三郎季久と同又太郎季長の嫡庶相論をきっかけに始まったもので、双方の与党は「数千|夷賊《えぞ》を催集之、外の浜内末部・西浜・折曾関に城郭を構て相争」ったという。この「夷賊」は「蝦夷が千島」に住んで「奥州津軽外の浜に往来交易す」る「日《ひ》の本《もと》・唐子《からこ》・渡党《わたりとう》」の三類からなり、「渡党」は「和国の人に相類」しているが、日の本・唐子は「其地外国に連て[#「其地外国に連て」に傍点]、形体夜叉の如く変化《へんげ》無窮なり、人倫、禽獣魚肉等を食として、五穀の農耕を知《しら》ず、九訳を重ぬとも語話を通じ難し」という異類だったという。  鎌倉幕府の命取りのひとつとなった奥州騒乱が、奥羽で完結するものではなく、北海道からさらにその北の「外国」にまでつながる事件だったことがわかる。  ㈭一四二三年、将軍足利|義量《よしかず》は、安藤陸奥守から馬二〇匹・鳥五千羽・鵝眼(銅銭)二万匹・昆布五〇〇把が献上された——たぶん将軍就任祝として——のに対し、太刀一腰・鎧五領・香合・盆・金襴一端を返している。蝦夷地貿易で安藤氏の築いた富の大きさがわかる。  ㈮一四八二年、夷千島王遐叉の使者と称する宮内卿が朝鮮を訪れ、大蔵経の賜与を願ったが、その携えてきた書面に「朕が国は卑拙と雖も、西裔は貴国と接す、これを野老浦と謂う、聖恩を蒙ると雖も、動《やや》もすれば|返《(ママ)》逆を致す、若し尊命を承らば、征伐して以て其の罪を罰せん者なり、朕が国人の言語通じ難し、国中の扶桑人に命じて専使と為す」とあった(『朝鮮成宗実録』)。  この使者の派遣主体については、アイヌ首長とする説から対馬人とみる説まであるが、安藤政季(師季)に宛てるのが妥当である(使者宮内卿はその被官|蠣崎《かきざき》光広か)。夷千島の西の果ては「野老浦」と呼ばれる朝鮮と接する地だ、ということばは、日本海を内海とする地理認識を示している。安藤氏は、北海道・サハリンと沿海州方面とを結ぶ山靼交易に携わっていたアイヌとの接触のなかで、この認識を得たのだろう。  また、一四七一年に朝鮮で成立した『海東諸国紀』の序文に、「東海の中に国する者は一に非ずして、日本は最も久しく且つ大なり、其の地は黒龍江の北に始まり[#「黒龍江の北に始まり」に傍点]、わが済州の南に至り、琉球と相接す」とある。当時の朝鮮はアイヌ居住地(アイヌモシリ)の全体を日本の領域内と認識していたことがわかる。安藤氏の「蝦夷沙汰」こそ、このようなアイヌモシリの国際的位置づけを成立させる環だった。 †津軽十三湊[#「津軽十三湊」はゴシック体]  北方交易の媒介者として重要な役割をはたしたのが、蝦夷地往来の重要なターミナルである十三湊《とさみなと》を本拠地とする津軽安藤氏である。安藤氏は蝦夷管領として中世国家の先端に位置づけられ、〈北の押え〉にあたる存在であると同時に、北海道・サハリンから大陸にまで届く視野をもつ自立的な通交者でもあった。  十三湊は蝦夷島渡海の起点であると同時に、日本海沿岸航路の終点でもあり、交易ルートは若狭を通じて畿内方面へとつながっていた。一五〇〇年ころ、宇須岸《ウスケシ》(今の函館)には毎年三回ずつ若狭からの商船が着き、渚に張り出して問屋の建物が軒をならべていたという。  一九九一年以来、国立歴史民俗博物館と富山大学を中心に十三湊の総合調査が行なわれ、最近「都市プランの想定復元図」が示されるにいたった。  それによると、砂州の中央を南北に中軸街路が走り、砂州の北端から南へ八〇〇メートルほどのところに、砂州を横断して土塁と堀が設けられている。土塁の北に隣接して堀で囲まれた一辺一〇〇メートルほどの領主館があり、安藤氏の本拠そのものと推定される。その周辺には家臣団の屋敷群も想定される。土塁の南には中軸街路の両側に町屋が形成され、あちこちに寺社や館も分布する……。  大胆な復元であるが、いま街村集落がある砂州西側についての言及がない、肝心の港湾施設の位置が特定されていないなど、まだまだ未解明の部分が大きいように思う。とくに、水辺から遠い砂州中央の直線的な道路沿いに市街地が形成される、というのは、自然発生的な中世港町のイメージとかけはなれており、とまどいを禁じえない。  この市街地の立地と、大規模な館址の南側を東西に走り砂州の先端部分を閉鎖空間とする土塁・堀とをあわせて考えると、港町が軍事要塞化された結果生じた二次的な都市構造とみたほうがよいのではないか。  今後はこの復元をたたき台として、従来から採集されてきた貿易陶磁などの遺物をもあわせ考えながら、北方交易のターミナルである港町の具体像にせまっていくことが必要であろう。とくに安藤氏の館が十三湖北岸の福島城や唐川城ではなく、港町の内部にあったことが事実とすれば、同氏の性格を考えるうえできわめて示唆的である。 †北奥の争乱とコシャマインの戦い[#「北奥の争乱とコシャマインの戦い」はゴシック体]  中世国家から北方の統轄者として位置づけられ、北方交易で莫大な利益をあげていた安藤氏には、北辺地域の矛盾が集中せざるをえない。交易をめぐるアイヌとの葛藤はもちろん、北奥の覇権をめぐって南部氏との抗争が続き、一四三二年には敗れていったん蝦夷島へ没落している。  このときは足利義教があいだに立って和睦したらしいが、嘉吉の乱後の一四四二年、安藤盛季が南部義政によって十三湊から追われ、翌年松前に渡った。安藤氏は勢力挽回をはかって津軽・下北にうち入ったが、この間盛季の子康季、その子義季があいついで戦死して、嫡流が絶えてしまった。  傍系から跡を継いだ師季(のち政季と改名)も、一四五四年には下北から蝦夷地への退却を余儀なくされ、五六年日本海を南下して小鹿島《おがしま》、ついで檜山《ひやま》に移る。  しかし一四六八年にいたってもなお、師季が熊野那智山に、「奥州下国(十三湊のこと)の合戦が思い通りになり、もとどおり津軽外浜・宇楚里鶴子遍地《ウソリケシペツ》(今の函館)がことごとく安堵された暁には、ふたたび神領を寄進することを誓います」という願文をささげている。  一四五六年蝦夷島を去った政季は、蝦夷地を手放したわけではなく、むしろ渡島半島南岸の一二の館主たちを三つのグループに編成し、それぞれに「守護」をおいて間接支配の体制を固めた。東部「下の国」の守護には茂別《もべつ》館主の下国家政、中部「松前」の守護には大館館主の下国定季、西部「上の国」の守護には花沢館主の蠣崎季繁が、それぞれついた。家政・定季は安藤一族、季繁は政季の姉妹の夫である。  館主はこれ以前より各地に住みついた商人的武士であって、『諏訪大明神絵詞』のいう渡党の系譜をひくものもいたらしい。ここに成立したのは、〈当主—守護—館主〉という安藤氏の被官体制であった。  これとほぼ同時に、——直接の因果関係は不明だが——アイヌと館主以下の和人との葛藤も発火点に達した。一四五六年、志濃里《しのり》にある和人の鍛冶屋村に、オッカイという名のアイヌ少年が、頼んでいた小刀《マキリ》を受け取りに来た。ところが刀のできぐあいと価格をめぐって争いとなり、鍛冶がオッカイをその刀で突き殺してしまった。  この小事件がたちまちアイヌによる和人館襲撃へと燃え広がり、翌年には「東部ノ酋長」コシャマインのもとに結集した東部アイヌ軍が、志濃里を皮切りに箱館、中野、脇本、穏内《おんない》、覃部《およべ》、大館、禰保田《ねぼた》、原口、比石《ひいし》の各館をつぎつぎと落とし、花沢館を囲んだ。ここでコシャマインは、戦線の延びすぎを懸念して兵を箱館平野へ返した。  花沢館の蠣崎季繁と「客将」武田信広は、東方に残った茂別《もべつ》館の和人勢力と合流しようとして東に進んだ。箱館平野の七重浜で両軍は決戦を挑み、信広の放った矢がコシャマインを射殺して、アイヌ側は総くずれとなり、多くのウタリが斬殺された。信広は季繁の養女(実は安藤政季の娘)をめとって蠣崎の家を継いだ。近世大名松前家は、この信広を先祖とする。  右の経過からつぎのようなことがわかる。  第一に、館が館主の住居かつ軍事要塞であるだけでなく、鉄をはじめとする物流の拠点であり鍛冶など生産の拠点でもあったこと。アイヌは館を通じて鉄製品などを本州方面から供給されていたため、取引において不利な立場を強いられていたと考えられる。南部氏など本州方面の勢力との軍事的緊張のもと、館主たちはアイヌとの取引で暴利をむさぼろうとし、これが大蜂起を誘発したのではないか。  第二に、この戦争は、アイヌ対和人の戦いであったと同時に、諸館主のなかで蠣崎氏がヘゲモニーを握ってゆく過程でもあったこと。館主の勢力範囲の西端にあって、かろうじてアイヌの攻勢を乗りきった蠣崎氏は、勝利の立役者信広が安藤政季の娘聟となることで、諸館主を率いる正当性を獲得した。  ところで従来、コシャマインの戦い前後の蝦夷地の状況については、アイヌと和人とのきびしい対峙を強調する見方が支配的であった。しかし主要な史料である『新羅《しんら》之記録』にはこんな記述がある。 [#2字下げ]抑も往古は、此国、上二十日程、下二十日程、松前以東は陬川《むかわ》、西は与依知《よいち》迄人間住する事、右大将頼朝卿進発して奥州の泰衡を追討し御《たま》いし節、糠部《ぬかのぶ》・津軽より人多此国に逃げ渡って居住す。  すなわち「往古」は、松前から東へ二〇日の行程の胆振支庁鵡川、西へ二〇日の行程の後志支庁余市までは、「人間」すなわち和人が居住していた。その発祥は、奥州合戦で頼朝軍に敗れた糠部・津軽(いまの青森県にほぼ相当)の人が、北海道島に移住したことにあった……。  これに従えば、和人の居住地域は、一五世紀なかば以前には道南の全域におよんだことになり、そこではアイヌとの混住を想定しなくてはならない。そういえば『松前家記』も、コシャマインの戦いを「蝦夷蜂起、大ニ掠殺ヲナシ、東牟川ヨリ西与市ニ至リ[#「東牟川ヨリ西与市ニ至リ」に傍点]、悉ク其害ヲ被《こう》ムル。残民皆上国・松前ニ萃《あつま》ル」と記していた。  このことは考古学のデータによっても裏づけられる。小樽の西約二〇キロメートルにある余市町の大川遺跡をはじめとするいくつかの遺跡では、アイヌ系・和人系・オホーツク人系の遺物が比較的近接した場所から出土している。しかもコシャマインの戦いの勃発した一五世紀なかばころを境に、和人系の遺物が急に姿を消すという。また、鵡川と余市を結ぶ線より東南側に、本州から搬入された輸入陶磁や国産中世陶器を出土する遺跡が分布している(『中世都市十三湊と安藤氏』一九四頁)ことも、和人による蝦夷地交易の面的なひろがりを示唆するものである。 [#挿絵(img/fig2.jpg)]  やはり北方地域においても、一五世紀前半は相対的安定期だったわけで、その安定は、西南地域よりやや早く、同世紀なかばすぎのコシャマインの戦いを画期として、くずれ始めるのである。 †志濃里館と勝山館[#「志濃里館と勝山館」はゴシック体]  大乱幕開けの舞台となった志濃里館は、函館市街地東方の小高い丘上に立地する長方形の館で、高い土塁が四方を囲んでいる。南に船付きとなる海岸を見下ろす。この海岸では特産物の宇賀昆布を産する。戸数一〇〇を数えたという鍛冶村は、館付属の生産施設であろう。  また館の西一一〇メートルほどの地点からは、一九六八年に三個の大甕に詰った四〇万枚もの中国銭が発掘された。甕のうち二個は越前、一個は能登半島の珠洲《すず》の窯で焼かれたもので、銭ともども日本海航路を通って運びこまれた。この備蓄銭が館主と無関係とは考えられず、コシャマイン蜂起以後うち続くアイヌとの戦いをさけて埋められたともいう。  一方、和人社会でヘゲモニーを確立した蠣崎氏は、花沢館から、隣接するはるかに大規模な勝山館に居を移し、ここが重要なトレーディング・センターになってゆく。館の直下は天ノ川河口に近い大澗《おおま》湾と呼ばれる天然の良港で、一三世紀の珠洲焼や一五・一六世紀の陶磁器が採集できる。ここからは松前、十三湊を経て日本海航路へ、また江差を経て西蝦夷の奥地へと交易ルートが延びていた。  近年この勝山館の大規模な発掘調査が行なわれ、一五世紀末〜一六世紀の和人館の実像が明らかになってきた。 [#挿絵(img/fig3.jpg)]  館の敷地は広大で、最高所の夷王山《いおうざん》(海抜一五九メートル)の東斜面には、六〇〇基以上の火葬・土葬の中世墓が、数個の群をなして分布している。夷王山の北東向きの斜面が階段状に造成され、空堀や柵列で防御を固めている。内部には最上部に館神《たてがみ》八幡宮が祀られ、地区ごとに「客殿」「倉庫」など使い分けがなされたらしい多数の建物跡が確認された。  五万点を数える遺物には、約半分を占める大量の陶磁器(中国製が多いが日本製の茶陶などもある)をはじめ、石製羽口や鉄片・鉄滓などの鍛冶用具、釘・かすがいなどの建築材料、刀・甲冑・鏃《やじり》などの武器武具、小刀・鍋などの調理用具、鏡・簪《かんざし》・白磁紅皿などの化粧用具、下駄などの履物、アイヌ式の銛《もり》・釣針などがあり、ひとつの都市といってもよいほどの多様な住民とその活動があったことが推測される。  アイヌ式の銛・釣針には、半製品の状態で出土するものがあり、すくなくとも一定期間アイヌが館内に住んで、漁具製造にあたっていたことが考えられる。コシャマインの戦いののちも、平時にはアイヌが館内に混住していた事実は、従来の「アイヌ対和人の戦い」という構図に大きな修正をせまるものといえる。 †松前藩の出発[#「松前藩の出発」はゴシック体]  コシャマインの蜂起は、以後八〇年続くアイヌの攻勢の序曲にすぎなかった。『新羅之記録』は、志濃里の事件を記したあとに、「これにより夷狄はことごとく蜂起して、康正二年(一四五六)夏より大永五年(一五二五)春にいたるまで、東西数十日の行程のうちに居住する村々里々をうち破り、シャモ(和人)を殺した」と続けている。  一五一二年にいたって東部アイヌがまた宇須岸(箱館)・志濃里・与倉前の館を攻め落とし、翌年には松前大館を落とした。その中心は「東部ノ酋長」ショヤコウジ兄弟だったらしいが、かれは一五一五年に蠣崎光広のだまし討ちにあって落命した。この戦いで、コシャマイン以前には和人居住区の経済的中心だった箱館地区が最終的に荒廃した。  一五一四年、蠣崎氏は本拠地を勝山から松前大館に移した。一五二五年には「東西之夷」が蜂起して和人が減少し、生き残りは天の河と松前に集住したという。西部アイヌの初登場である。ここに和人居住区は極小にまで収縮した。  一五二八年からの攻勢は西部アイヌによるもので、その中心は檜山支庁瀬田内を本拠地とするタナサカシという首長だったが、和睦の償い物を取りに勝山館に来て、蠣崎良広に射殺された。一五三六年にもタナサカシの婿というタリコナが和睦の酒で誘われて、良広に斬り殺された。この間つねに軍事的にはアイヌ側が優勢で、和人側は謀略でピンチを切り抜けるしかなかった。  一五五一年、西部アイヌの首長ハシタイン、東部アイヌの首長チコモタインと、蠣崎良広の子季広の間に講和条約が結ばれ、一世紀におよぶ戦争状態に終止符が打たれた。『新羅之記録』によれば条約はつぎのような内容のものだった。 [#2字下げ]勢田内《セタナイ》の波志多犬《ハシタイン》を召寄せ、上之国天河の郡内に据え置きて西夷の犬《イン》と為し、また志利内《シリウチ》の知蒋多犬《チコモタイン》を以て東夷の犬と為し、夷狄の商舶往来の法度を定む。故に諸国より来れる商賈(商人)をして年俸を出さしめ、其の内を配分して両酋長に賚《あた》う。これを夷役と謂う。しかる後、西より来る狄の商舶は、必ず天河の沖にて帆を下げ休んで、一礼を為して往還し、東より来る夷の商舶は、必ず志利内の沖にて帆を下げ休んで、一礼を為して往還す。 『松前家記』が「季広東西蝦夷ト講和シ、遍ネク宝器ヲ与ヒ、深ク勧心ヲ結ブ」と書いているように、条約の内容はアイヌ側に有利なもので、講和成立時の力関係がうかがわれる。本州側から来た商船は蠣崎氏に年俸を払い、蠣崎はその一部をアイヌ首長に「夷役」として納めなければならないが、東西蝦夷地から来るアイヌ商船は、天の河・志利内の沖で帆をおろして「一礼」をなすだけで往還できた、というのである。  この条約によって、西は天の河、東は知内より以南、すなわち松前半島の西半分が和人の勢力範囲として合法的に認められた。法的にはここに「和人地」の出発を求めることができる。それは松前藩の前提が形成されたことでもあった。  一五九〇年、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、天下統一をほぼ完成させると、ときをおかず秋田(安藤)実季は上洛して秀吉に謁した。これに不安を覚えた蠣崎慶広(季広の子)は、前田利家らのあっせんで、同年一二月二九日に聚楽第《じゆらくだい》で秀吉と対面した。  翌年正月一九日、秀吉は実季に出羽国檜山郡一職および秋田郡の一部、計五万二四四〇石を安堵した。蝦夷島は実季の領知からはずされている。ここに秋田氏は、蝦夷地との関係を断たれて、出羽の一大名として近世を生きることになる。  一五九二年四月、朝鮮侵略戦争が始まると、翌年正月、蠣崎慶広ははるばる肥前国名護屋の陣所まで出かけて、秀吉と対面した。秀吉はつぎの朱印状を慶広に与えた(『福山秘府』巻八)。 [#ここから2字下げ] 於二松前一|従《より》二諸方一来船頭・商人等、対二夷人一、同二地下人一、非分義不レ可二申懸一。并《ならびに》船役之事、自二前々一如二有来一可レ取レ之。自然此旨於二相背族在一レ之者、急度《きつと》可二言上一。速可レ被レ加二御誅罰一者也。   文禄二年正月五日       朱印 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]蠣崎志摩守トノヘ  慶広が三月末に帰国して首尾を報告すると、老父季広は狂喜して、「若狭以下の北国ではわが家の名が知られているとはいえ、上洛の望みを遂げたこともなく、なお河北檜山の屋形安藤氏を主君と仰いできた。ところが貴殿は、いまや日本国の大将軍太閤秀吉公の直の忠臣となった。これは家運がいよいよますます長久となり、子孫が繁栄する基だ」といった。ここに蠣崎氏は檜山安藤氏の配下から完全に自立し、北海道における唯一の大名としての地位を確立した。  また『新羅之記録』によれば、蠣崎氏は、この朱印状を写した制札を立て、「東西の夷狄」を召集してアイヌ語でつぎのように読み聞かせたという。 [#2字下げ]この上は、なお夷狄が敵対して、慶広の下知にそむき、諸国からやってくるシャモ(和人)に対して、乱暴なふるまいにおよんだならば、速やかにその旨を報告せよ。関白殿は数十万の兵を差し遣わし、ことごとく夷狄を追伐されるであろう。  ところが朱印状の文面は、「本州方面から松前に来る船頭・商人は、アイヌに対して非分をいいかけてはならず、また先例の通り船役を蠣崎氏に支払わなければならない。この旨に背く者がいたらすぐに言上せよ、速やかに誅罰を加えることとする」という内容で、むしろアイヌを保護する立場をとっている。『新羅之記録』が事実を伝えているとすれば、蠣崎氏は朱印状の内容をねじまげたうえでその威を借り、アイヌを威圧しようとしたことになる。  蠣崎氏に認められた権限としては船役徴収権しか記されていないが、船頭・商人に、アイヌとの取引を松前でのみ行なわせ、直接蝦夷地に赴くことを許さない権利、いいかえれば対アイヌ交易の独占的管理権を含意するものだった。それは一五九六年の秀吉朱印状にいたって、「最近も通告したように、本州からの商売船は、アイヌと直接に接触してはならない。松前において取引を行なうべきである」と明記される。  しかしこれらの法令は、アイヌ商船が本州方面へ赴くことまでを妨げるものではなかった。一六〇四年の徳川家康黒印状においてもなお、第二条「本州の船が松前慶広(蠣崎から松前への改姓は一五九九年)に断りなく蝦夷地に渡海し、売買を行なったならば、すぐに江戸へ報告を上げるべし」の付則に、「エゾはどこへ往来しようとも、エゾの自由意思に任せるべし」とある。  このころなお北奥地域には多数のアイヌが居住しており、津軽海峡を往来する「狄船」の姿がめずらしくなかった。一五九三(文禄二)年の南部信直書状は、下北の田名部《たなぶ》・横浜・野辺地《のへじ》で多くの「ゑぞふね」が建造されていたことを記している。  右の家康黒印状は、一五九二年以来の統一権力の北方政策を集約し、近世大名松前氏と松前藩の権力基盤を確立したものだった。その中核は、松前氏以外の者が松前氏の許可なくして松前・蝦夷島でアイヌと交易することを許さない、ということにある。これを幕府の外交体制としてみれば、対馬藩と朝鮮、薩摩藩と琉球の関係とならんで、境界地域で異国・異域との交通を管理するシステムの一環をなす。藩体制としてみれば、石高さえ定められていないきわめて異例の存在だった。 †統一権力と〈環日本海地域〉[#「統一権力と〈環日本海地域〉」はゴシック体]  一五九二年正月、名護屋で蠣崎慶広と会った秀吉は、「高麗国を攻め随えんとして在陣中、思いがけなくも狄の千嶋の屋形が、遼遠の路を凌《しの》いでやってきたことは、まことにもって神妙である、これで高麗国をまちがいなく手中にすることができる」と歓喜した。秀吉が喜んだのは、日本の果ての大名の参陣のせいだけでなく、「狄の千嶋」の掌握が朝鮮侵略のために不可欠と考えていたからだった。  この判断の背景には、つぎのような地理認識があった(フロイス『日本史』)。 [#2字下げ]朝鮮国征服の次第をよりよく理解するためには、関白当人がかの地から得た情報、ならびにかの地の事情と地勢が印刷されている諸地図にもとづき、まず同国の特質、および同国民について知っておく必要があろう。この朝鮮地方は……三四か国と隣接し、西方ではシナ人と接触し、朝貢国として彼らに対して毎年貢納している。北部および北東部ではタルタール人とオランカイ人〔の土地〕に接している。オランカイ人〔の土地〕は、日本の北部と大きい入江を形成し、蝦夷島の上方で北方に向かって延びている突出した陸地である。  秀吉は日本海の岸が蝦夷地・オランカイでつながる閉じた円環をなしていることをよく知っていた。かれが小田原攻めの前から再三「奥州・津軽・日の本まで」あるいは「関東・出羽・奥州・日の本迄」仰せつけると広言していたことも、朝鮮侵略戦争の過程で加藤清正が戦略的にオランカイへ侵入したことも、豊臣政権が日本海をとりまく地域のすべてを征服しようという構想をもっていたことを示すのではないか。  そして徳川政権もまた、侵略こそ断念したものの、北方世界になみなみならぬ関心をもっていた。『新羅之記録』によれば、一五九九年冬、家康は大坂城西の丸で蠣崎義広と対面し、「狄の嶋の絵図をご覧になり、北高麗のようすについてお話があった」。義広が松前と改姓したのはこのときと伝える。  また一六一〇年には家康の面前で対馬藩家老|柳川調信《やながわしげのぶ》と松前公広が対面し、家康は調信に「この者は松前伊豆守という狄の千嶋の屋形である。そもそも(対馬の先にある)北高麗と(松前の先にある)奥狄とは、領域が近接していると聞く。お前たち今後は会って話し合いなさい」と語った。  しかし〈環日本海地域〉は統一権力が造り出したものではない。一四〜一五世紀においてすでに、津軽十三湊では「夷船・京船群集」(『十三往来』)「北国又は高麗の船も御入候」(『御曹子島渡』)という情景が見られた。安藤氏の海上活動や、それとリンクするアイヌの交易活動こそ、〈環日本海地域〉を成立させる重要な要素であり、その痕跡は先に見た「夷千島王」の書契に残っていた。  そしてまたしても『新羅之記録』であるが、一五九三年正月に名護屋で家康と謁したとき、蠣崎慶広は唐衣(サンタンチミブ)の道服を着していたが、これは「奥狄」が「唐渡《カラト》の嶋(カラフト)より持ち来りしもの」だった。慶広は家康の所望により、その場で脱いで進上している。  こうした〈地域〉には、国境を超えた場で生きる人間類型が見出される。加藤清正はオランカイをめざす途上、「せいしう浦」で「せるとうす」という名の「北国の武者大将」を生け捕りにしたが、その配下に「おらんかい口(女真語)をも、朝鮮口をも、日本口をも、自由につかい申候|能《よき》通詞」がおり、清正は重宝がって二郎と名づけ召し仕った。この二郎はもと松前の漁師で、風に流され「せいしう浦」に漂着し、二〇年ほど暮した人だった(『清正高麗陣覚書』)。  また正徳年中(一七一一〜一六年)、津軽藩領|三厩《みんまや》の辺に蝦夷一〇人ほどが住みついたが、孫の四郎三郎の代までに、日本人とすこしも変わらず、言語はもちろん文学までも心得るにいたった。一七八八年ころには、千石積みの廻船を所持する富商となって、津軽侯の御用を仰せつかるほどに出世したという(『東遊雑記』巻五)。 †〈日の本〉と自立意識[#「〈日の本〉と自立意識」はゴシック体]  向山誠斎(一八〇一〜五六年)の『誠斎雑記』は、松前家を「島夷の酋長というべき者で、わが国の大名には比べがたい」存在とし、一六〇四年の家康黒印状にふれて、「諸国の商船のこととエゾに非義を申かける輩のことが記されているだけで、領知のことは見えない。これもわが国の外であるがゆえに、領知安堵のことにおよばれなかったのであろうか」と記している。江戸時代を通じて松前藩には「わが国の外」というイメージがつきまとっていた。  これは中央の側からの意識であるが、松前側も自己を「日本の外」とする認識をもっていた。イタリア人|神父《パードレ》ジロラモ=デ=アンジェリスの『第一蝦夷報告』(一六一八年)によると、松前公広は松前に行きたいというアンジェリスの希望を聞いて、「パードレが松前におみえになることになんら差支えはありません。なぜなら天下(幕府)がパードレを日本から追放しましたけれども、松前は日本ではないからです」と答えたという。キリシタン問題のような国家意識がするどく問われるテーマについてさえ、松前では「日本」の原則からの逸脱があやしまれていなかったのである。  このような自立意識の淵源は、当然中世にさかのぼる。松前氏は安藤氏への下克上で蝦夷地支配を確立したから、安藤氏が蝦夷=朝敵に出自するという説をことさらに強調し、自己の出自を若狭の武田氏に求めたふしがある。しかし蝦夷地に君臨しようとする以上、自己の支配基盤が「日本」にくらべて異質であることは所与の前提であり、それゆえ安藤氏の自立意識をきりすてることはできなかった。  中世において安藤氏の自立意識を象徴するものとして、「日の本将軍」という称号が注目されている。「日の本」とは、太陽の昇る東の果てを意味することばで、具体的には安藤氏の支配する日本国の北辺ないし蝦夷地をさす。秀吉の北方認識にあらわれた例はすでに見た。  若狭の『羽賀寺縁起』によれば、一四三五年炎上した羽賀寺の再興にあたって、勅命を被った「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」が、檀越《だんのつ》として莫大な奉加銭を施入したという。ここには、北辺の豪族としての独立意識とともに、日本海航路を通じて若狭や京都につながろうとする指向もうかがえる。  こうした二面性は学説上にもあらわれ、日の本将軍を鎮守府将軍と同一視して幕府の北方支配の系列に位置づけようとする遠藤巌説と、蝦夷の王としての安藤氏の自立意識を読みとる海保嶺夫説とが対立している。さらに日の本将軍号が安藤氏だけでなく、他家の系図や語り物にも見られる——たとえば『さんせう太夫』に「奥州日の本の将軍、岩城の判官正氏殿」——ことから、東国や東北の地域的自立についての人々のイメージが投影されたことばだとする大石直正・入間田宣夫説もある。  同様のことは安藤氏の系譜意識についてもいえる。数種ある安藤系図は、その先祖を神武東征で滅ぼされた長髄彦《ながすねひこ》の兄の「安日《あび》」、悪路王《あくろおう》と呼ばれ坂上田村麻呂に退治された「高丸」、あるいは前九年の役で敗死した安倍貞任としている。これらに共通することは、朝敵であり、蝦夷との系譜的つながりであり、「鬼」のイメージである。「日本」の武士たちの大多数が祖先を天皇家に結びつけているのと正反対で、ここにくりかえし中央への敗北を嘗めつつも自立と抵抗の意識を失わなかった北辺の豪族の誇りを読みとることは誤りではない。  しかし安藤氏が、中央から蝦夷の統轄者として認められることによって、中世を生き抜いてきたことも事実である。蝦夷の統轄者としての正当性は、蝦夷出自の強調によってよりたしかなものになっただろう。  ふたつの見方はどちらもなりたつのである。大石直正は、奥州藤原氏の例をも参照しながら、これを境界に生まれた政治権力に共通する二面性として一般化した(「平泉藤原氏と津軽安藤氏」)。おなじ特質は江戸時代の松前藩にも明瞭に見てとれる。 [#改ページ]   【第3章[#「第3章」はゴシック体]】 古琉球の終焉 [#扉裏(img/map3.jpg)] †海禁体制下の琉球[#「海禁体制下の琉球」はゴシック体]  一三六八年に明朝が成立してまもなく、沖縄本島に分立した中山・山南・山北三つの王権(三山《さんざん》)は競うように朝貢を始める。これを受けて明は、暦の頒布、印の授与、冠服の賜与という順で冊封の手続きを進め、一五世紀はじめまでに三山との個別の国交を確立させた。こうして琉球は、はじめて国際社会の舞台に本格的に登場し、文献史料によって国のようすがうかがえるようになった。これ以降、一六〇九年の島津氏による征服までを、琉球史の時代区分で「古琉球」と呼んでいる。  三山との朝貢貿易によって当初明が獲得したものは、馬と硫黄という軍需物資が中心だったが、これは北方に逃れた元の末裔「北元」とのにらみあいが続いていたからだ。しかし一四世紀すえころから、蘇木・胡椒・乳香など東南アジアの産物があらわれてくる。明は海禁によって中国人商人から海外産品を入手するルートをみずから閉ざす結果となったので、地の利のある琉球を窓口に位置づけ、琉球の朝貢というあらたなルートを確保したのである。  明は、このルートを維持するために琉球に特別の優遇措置を施した。次の表のように他国より抜群に多い朝貢回数を認める、朝貢貿易用の海船を与える、江南人を送りこんで外交・貿易のノウハウを提供する、琉球人の子弟を明の国立大学である国子監に受け入れる、などがその内容である。 [#挿絵(img/fig4.jpg)]  これを受けた琉球でも、貿易の利潤を背景に歴史のテンポが急に加速され、明の国家制度を導入するなど、国家体制や貿易組織が整備された。そのいっぽうで、三山それぞれの内部の政治的対立と、三山相互の争いとが結びついて、王位をめぐる政変が、一三九〇年代から一四一〇年代にかけて頻発する。  その混乱のなかから、山南出身の英雄尚巴志があらわれ、中山の察度王統を滅ぼして父思紹を中山王に即《つ》け、ついで山北・山南を滅ぼして、一四二〇年代に三山を統一し、みずからは二代目の王となった(第一尚氏王朝)。  琉球の統一王朝は、海禁で海外活動が非合法化された中国人貿易商を国家機構のなかにとりこみ、中継貿易によって富を蓄積し、未曾有の繁栄を謳歌した。東アジアと東南アジアを結ぶ交易ルートのかなめとして、明を中心とする世界経済の重要な担い手となったのである。一四〇五〜三三年の鄭和の遠征もおなじ目的をもっていたが、琉球の中継貿易は、その長期的・恒常的性格といい、実現した交易の規模といい、鄭和の遠征よりはるかに大きな歴史的意味を担ったといえよう。  一四五八年に琉球の王城・首里城正殿に掛けられた大鐘の銘は、誇らしげに謳う。 [#2字下げ]琉球国は南海の勝地にして、三韓(朝鮮)の秀を鍾《あつ》め、大明を以て輔車と為《な》し、日域(日本)を以て脣歯と為し、此の二中間に在りて湧き出ずるの蓬莱嶋なり。舟楫(海船)を以て万国の津梁(かけ橋)と為し、異産至宝は十方の刹(寺院)に充満せり。  輔車は車と輻《や》、脣歯は唇と歯で、ともに切っても切れない密接な関係のたとえである。首都首里の外港那覇を起点とする交易ルートは、鐘銘にあらわれた中国・朝鮮・日本はもちろん、安南・シャム・パタニ・マラッカ・スマトラ・パレンバン・ジャワ・スンダなどの東南アジア諸国を結び、文字どおり「万国の津梁」として機能した。 †尚真王の登場[#「尚真王の登場」はゴシック体]  しかし第一尚氏王朝は、尚巴志の死後安定を欠いた。五人の国王が数年おきにあいついで王位につき、王族(志魯・布里、一四五三年)や有力豪族(護佐丸・阿麻和利、一四五八年)の武力衝突が起きるなど、混乱が続いた。  このころ、王族や地方豪族は各地に居城を構えて割拠しており、首里の優位はまだ絶対的なものではなかった。それらの城を琉球語でグスクというが、中国風の石垣やアーチ門をもつグスクの跡は、沖縄本島(とくにその南部)を中心にいまなおたくさん残っている。  そんななかで、低い身分から出世して、一四五九年に対外交易長官ともいうべき御物《おもの》城御鎖側《ぐすくうずすぬすば》の要職に就いていた金丸が、尚徳王の死(一四六九年)後の混乱に乗じて、翌年王位を奪った。これが尚円王である。姓は「尚」を継承したが、これは明らかに革命による王朝の交代である。以後明治まで続くこの王朝を第二尚氏王朝という。  尚円が一四七六年に死亡したあとは弟宣威が襲った。翌年二月、尚宣威王は、新王の即位を祝賀するキミテズリの神があらわれたと聞いて、正装して首里城正殿前の広場に出て神の祝福を待った。ところが出現した神(もちろん神の憑依した女性だろう)は、旧例とは異なって西をむいて立ち、「首里《しより》おわるてだこが/思い子《ぐわ》の遊《あす》び、見物《みもの》遊び/躍《な》よればの見物」というオモロを誦した。 「首里おわるてだこ」は故尚円王をさし、その「思い子」=愛児とは、当時一二歳だった嫡子尚真をさす。詩の大意は、「首里におわす[#「おわす」に傍点]王の、愛《いと》し子の神遊び、みごとな神遊び、舞い姿のみごとさよ」といったところか。  神意は尚宣威でなく尚真の即位にあることを、このオモロは示したのである。こうして尚宣威は、即位を明朝に告げることもないままに退位し、王位は尚真に帰した。 [#挿絵(img/fig5.jpg)]  正史の伝える右の経緯にはウラがありそうだ。伊波普猷は、尚円王の未亡人で尚真の生母のオギヤカが画策して、王位が尚宣威の系統に行くのを阻止したのがことの真相だとし、その後尚真と尚宣威の娘との間の子尚維衡が、他の妃の子より年長なのに王家の墓|玉《たま》御殿《うどうん》に入る資格を与えられなかった(一五〇一年「たまおどんのひのもん」)のも、オギヤカの意向による、と推定した。その当否はともかく、趨勢が王権の強化、王位の嫡々相承にむかっていることはまちがいない。  尚真王の即位後まもない一四七八年、たまたま那覇に滞在して帰国の日を待っていた済州島の漂流民が、王とオギヤカの行幸のようすを目撃した。かれらは朝鮮に帰ってこう語っている。 [#ここから2字下げ] 私たちはたまたま国王の母が出遊するのを見ました。彼女は四面に簾を垂らした漆塗りの輦《れん》に乗っています。輦を舁《か》く者は二〇人ほどで、みな白い苧の衣服を着ており、帛《きぬ》で首を包んでいます。百名あまりの軍士が、長剣をもち弓矢を佩《は》き、輦の前後を護衛していて、双角・双太平嘯などの楽器を吹き、火砲を放ちます。四、五人の美女が綵緞《さいたん》の衣の上に白苧布の長衣を着て(行列のなかに)います。私たちが路傍に出て拝謁しますと、王母は輦を停めて、錫の瓶ふたつに酒を盛り、漆塗りの杯に注いで私たちにふるまってくれました。酒の味はわが国のものとおなじでした。 王母のやや後ろを、一〇余歳の少年が進んでいきます。その容貌は非常に美しく、髪は後ろに垂らしていますが編んではいません。紅の絹の衣と束帯を着し、肥えた馬に乗っています。轡を取る者はみな白衣を着ています。乗馬して先導する者が四、五人、左右に控えて護衛する者ははなはだ多く、衛士のうちで長剣をもつ者は二〇余名でした。傘をもった者が(少年の)馬とならんで進み、日を遮っています。私たちがまた拝謁しますと、少年は馬から下りて、錫の瓶で酒を盛りふるまってくれました。飲み終りますと、少年は馬に乗って去っていきました。 国人の話では、「国王がなくなり、嗣君が幼いので、母后が臨朝していますが、少年が年を加えれば、即位することになりましょう」。 [#ここで字下げ終わり]  この談によれば、尚真王治世の初期はオギヤカが実質上の王だったことがわかる。行列の威儀は相当なもので、朝鮮人がめずらしいのか母子ともに親しく酒をふるまっている。 †鳴響む按司添い[#「鳴響む按司添い」はゴシック体]  その後半世紀ちかくも続く尚真王の治世は、琉球王国の最盛期として知られる。まず版図が沖縄本島をはるかに超えて、奄美諸島から八重山群島にまでおよんだ。  まず奄美方面を見ると、一四九七年、尚円王の使者と称する博多の僧梵慶が朝鮮を訪れて、「大島はわが国の附庸下にある(属国である)。近来日本の兵士が来てここを撃ち取ろうとし、多数の戦死者が出たが、十回のうち八、九回は勝利し、千里の遠きまで敵を挫いた」と語っている。当時は尚円王が死んでからずっと後で、この使者は真正のものとは思われないが、奄美大島からトカラ列島あたりの海域で、薩摩と琉球の勢力が鎬《しのぎ》をけずっていたことは事実であろう。  また一五三一年に成った『おもろさうし』巻第一の一首に、「おぎやか思《も》いに/笠利《かさり》討ちちへ みおやせ」とある。「オギヤカモイに笠利を討って奉れ」という意味である。「おぎやか思い」は尚真王の名前で、笠利は奄美大島北部の地名で奄美の政治的中心だから、ここには尚真王の奄美征服が謳われていることになる。  先島方面では、一五〇〇年に、尚真王の兵が、宮古島の首長仲宗根|豊見親《とゆみや》の協力を得て、八重山の首長|掘河原《ほんがわら》・赤蜂《あかはち》を滅ぼし、首里の威令が琉球列島全体におよぶにいたった。あとでふれる「百浦添《もんだすい》之欄干之銘」にも、尚真王は、一五〇〇年の春、西南の国太平山(宮古・八重山)を戦艦一〇〇艘で攻め、その国人は翌年から歳貢を献ずるようになった、と記されている。王府の先島支配が、朝貢関係による緩やかなものだったことがわかる。  また本島を中心とする地域では、按司《あじ》と呼ばれる地方豪族がグスクを根城に割拠し、王との謁見や訴訟のときだけ首里にやってくる、という状態だったのが、尚真王のときに改められ、諸按司は首里に集住させられ、領地には代官ひとりをおいて遠方より支配する、というかたちに変わった。この事蹟は『球陽』の尚真王代の記事の末尾に附載された記事に見えるだけで、王の治世のいつのことか明らかでなく、どの程度徹底したものか心もとない点もある。  しかし、尚真王代のすえから残る辞令書に記された人事異動を整理してみると、ある役職がおなじ家系に世襲されることのないよう留意されており、しかもその異動がかなりひんぱんであることがわかる。このような官僚制原理の浸透と共通の根から発するものとして、右の首里集住政策を評価できよう。 『おもろさうし』の編纂が始まったのも尚真王のときだ。一五三一年に成った巻第一の「首里王府の御さうし・きこゑ大ぎみがおもろ」は、王の威力が聞得大君《きこえおおぎみ》(最高級神女)の神威に支えられてさかんなようすを、つぎのように謳いあげている。琉球では、聞得大君を頂点とする神女の組織が、王を頂点とする官僚組織とならんで、国家機構を構成していた。 [#ここから2字下げ] 一|聞得《きこゑ》大|君《ぎみ》|ぎや《(が)》/降《お》れて 遊《あす》び|よわれば《(給えば)》/天《てに》が下《した》/平《たい》らげて |ちよわれ《(ましませ)》/又|鳴響《とよ》む精高子《せだかこ》が/又|首里杜《しよりもり》ぐすく/又|真玉杜《まだまもり》ぐすく 一|聞得《きこゑ》大|君《ぎみ》ぎや/降《お》れて 遊《あす》びよわれば/神《かみ》|てだ《(太陽)》の/守《まぶ》りよわる按司添《あんじおそい》/又|鳴響《とよ》む精高子《せだかこ》が/又|首里杜《しよりもり》ぐすく/又|真玉杜《まだまもり》ぐすく 一|聞得《きこゑ》大|君《ぎみ》ぎや/世|添《そ》う|せぢ《(霊力)》 |みおやせば《(奉れば)》/千万 世 添《そ》わて ちよわれ/又|鳴響《とよ》む精高子《せだかこ》が/又|聞《きこ》ゑ按司添《あんじおそ》い/又|鳴響《とよ》む按司添《あんじおそ》い/又|首里杜《しよりもり》ぐすく/又|真玉杜《まだまもり》ぐすく/又 大|君《きみ》す 守《まぶ》らめ [#ここで字下げ終わり] 「鳴響む(世に鳴り響く)精高子(精力のさかんな人)」は聞得大君のいいかえ。また「添う」は支配する意で、「按司添い」(按司たちの支配者)は王のこと。「首里杜ぐすく」「真玉杜ぐすく」はともに首里王城内の聖地で、首里王城そのものをあらわす。 [#挿絵(img/fig6.jpg)]  オモロの歌い方は、「又」の付く行が「一」の付く行のところに入って中間部分がくりかえされる——第一の作では「降れて 遊びよわれば/天が下/平らげて ちよわれ」がくりかえし部分——のが基本だが、細部では不明な点が多い。くりかえしを作るさいに、〈聞得大君—鳴響む精高子〉〈首里杜—真玉杜〉〈聞ゑ按司添い—鳴響む按司添い〉のような同義語あるいは類語のペアがしばしば用いられる。  尚真王賛歌としてもうひとつ有名なのは、一五〇九年に首里城正殿前の階段の石造欄干に彫り付けられた長文の銘だ(百浦添之欄干之銘)。現物は戦災で失われてしまったが、銘文は写されて残った。臣下から尚真王への奏上の形式をとるこの銘は、王を「天姿秀異、睿知聡明、徳は三王に|※[#「にんべん+牟」、unicode4F94]《ひと》しく、名は四表に聞ゆ、明主と謂うべし矣、王の仁沢は川の海に流れて寛く、一朝の世事、万代の奇観なり」と誉めたたえたあと、前代に超出する当代の勝事として、一一項目を列挙する。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰三宝に帰依して、造仏造寺に励んだ。 ㈪臣には礼義を正し、民には賦斂《ふれん》(租税)を薄くし、治国斉家につとめた。 ㈫先島征服のこと(既述)。 ㈬衣服は錦綉、器は金銀を用い、刀剣弓矢を蓄えて護国の利器とした。 ㈭臣僚を官職につけ、位階を定めて鉢巻の黄赤、簪《かんざし》の金銀で表示し、後世尊卑の亀鏡とした。 ㈮王宮一帯を美しく飾りたて、前殿・後宮に常時春の花をおいた。 ㈯内園にある寺院に仮の山水を築き、宸遊の佳境とした。 ㉀贅を尽くした膳部、めずらしい銭帛衣帯、香り高い茶、芳醇な酒、屏風や掛軸、管弦で客をもてなし、臣民を楽しませた。 ㈷三年一次に減らされていた明への朝貢を、武宗即位のはじめに使者を送って、一年一次に戻してもらった。 ㉂中華の風を琉球に移して俗を易《か》え、皇帝の万歳を祝う朝儀を始めた。 ㉃中華宮室の制度に倣《なら》い、青石を削って殿下の欄干とした。 [#ここで字下げ終わり]  ㈰と㈪は仏教と儒教を国家支配の支えとしたことを語る。㈫は版図の拡大、㈬は軍備の充実、㈭は官僚制・位階制の整備を示し、こうした国力の充実に支えられて、㈮㈯㉀のような贅沢が可能になった。 †繁栄の翳り[#「繁栄の翳り」はゴシック体]  以上、結構ずくめに見える尚真王の治世だが、この時代は同時に古琉球の栄光が翳りを見せ始めた時期でもあった。  一四七四年、福州で琉球国使臣が殺人・放火におよぶという事件が起きた。翌年、明は懲罰として朝貢回数を二年一貢に減らす措置をとった。他国より抜群に多い対明交易こそ、琉球の繁栄を支える背骨だったから、これは琉球にとって死活問題だった。まもなく即位した尚真王も、一四七八年に一年一貢への復帰を願ったが、許されなかった。明の礼部は、その理由を皇帝にこう説明している。 [#2字下げ]国王尚円がなくなって、その世子尚真が、一年一貢への復帰を願って、先朝の先例をもちだし、諸夷を制御する役に立ちたいといってきた。しかし実情を調べてみると、中国との貿易を図ったものにすぎない。いわんや近年の都御史からの報告によれば、琉球の使臣は多くは逃亡した福建人だという。ずるがしこさはかぎりなく、殺人・放火におよび、また中国の物資を買って外夷の利益をむさぼろうとしている。その要求には従いがたい。  先に述べたように、明朝初期、琉球は海禁体制のもとで中国が南海産品を合法的に入手するための窓口に位置づけられた。海外での活動が封じられた中国商人、とくに福建の商人は、琉球に渡航し、琉球国の使臣として朝貢貿易に携わることに、あらたな進路を見出した。渡来福建人の居留地久米村はこうして形成され、琉球王国の外交部局の役割をはたした。  ところが一五世紀も末近いこの時期になると、そうした体制自体が明の歓迎しないものになってしまった。中国人密貿易商が東南アジアと中国を直結する交易ルートを開発した結果、南海交易における琉球のヘゲモニーはくずれつつあった。一四七四年の事件自体は偶発的なものだが、明には琉球をとくに優遇しておく理由がなくなっており、琉球の朝貢貿易を制限する方向に転じたのはむしろ必然だった。  欄干銘の㉂は、三年(正しくは二年)一貢に減らされた朝貢回数を一年一貢に復させたことを、尚真王の功績に数えているが、その実年代は一五〇七年である。じつに三〇年ぶりに琉球最大の外交課題が解決をみたのだが、琉球の中継貿易が往時の繁栄をとりもどすことはなかった。 [#挿絵(img/fig7.jpg)]  わずか四年後の一五一一年、ポルトガル海軍が南海交易の重要な港市国家マラッカを陥落させる。つづいてポルトガルは、中国沿海の密貿易ルートに沿って、広東、福建、浙江方面へと進出し、琉球の活躍の場はますます狭くなった。一五七〇年にシャム王国に来たのが、南海にあらわれた琉球船の最後となった。  こうして貿易国家琉球の繁栄に翳りが見えはじめたころ、琉球の国家的自立が失われる不吉な前兆があらわれていた。一四八〇年、室町幕府の奉行人布施英基は、薩摩の島津武久に対して、つぎのような要請を発した。 [#2字下げ]琉球国より(京都に)便りがないことは、大乱で世間が騒がしかった間は、やむをえないことであった。しかしすでに情勢がおちついたので、「早々に先例の通り琉球船の来朝が行なわれるよう、(琉球に)申し遣わされたい」という旨の(幕府の)奉書が(島津氏に)送られた。(幕府から)仰せ出だされた通りに、急ぎ(琉球に)御伝達いただければ幸いである。おなじことならば、この(手紙を持参する)使者が(京都に)帰ってくるのにあわせて、琉球船を遣わすようにさせることが肝心である。  幕府は、応仁・文明の乱のあおりで途絶していた琉球船のヤマト来航を再開させようとしているが、それを「来朝」と呼んで琉球をはっきりと自己より低位に位置づけており、しかも薩摩島津氏に琉球への働きかけを委ねている。この委任をひとつの根拠として、のちに島津氏は琉球を薩摩の附庸国(属国)だと主張するにいたる。 †久米村の盛衰[#「久米村の盛衰」はゴシック体]  那覇市中心部の一角に、久米一丁目、同二丁目の町名があり、その南端に大門、北端に西武門《にしんじよう》の地名が残る。久米一丁目の天妃《てんぴ》小学校敷地の南東隅には、上天妃宮の石門がひっそりと立つ。久米二丁目に隣接する若狭一丁目には、日本にはめずらしく規模の大きい孔子廟が異国的なムードを放つ。これらは、琉球の華僑ともいうべき|※[#「門<虫」、unicode95a9]《びん》人三十六姓(※[#「門<虫」、unicode95a9]は福建の異称)が集住した「久米村」(「唐栄」ともいう)の、わずかに残されたなごりだ。  一五世紀の久米村のようすは、朝鮮人の見聞記にいくつかの記事がある。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰王都から五里ほどにある水辺の公館に居を与えられた。館のとなりに土城があり、なかに一〇〇余の家がある。ここに住むものはみな朝鮮人や中国人である。(一四五六年『朝鮮王朝実録』) ㈪中国人の来居するものが三千余家あり、別に一城を築いて住んでいる。(一四七一年『海東諸国紀』) ㈫海辺に天妃娘娘殿が造られていて、出船のときには馬や猪を斬って祭る。(一四七七年『朝鮮王朝実録』) ㈬中国から商売のためにやってきて、住みついた者がいる。その家はみな瓦ぶきで、構えは宏麗、内部は朱や青で彩られ、室内では椅子を使っている。人々はみな甘套(不明)の衣を着ている。(一四七九年『朝鮮王朝実録』) [#ここで字下げ終わり] 「水辺の公館」とは明の使節が宿泊する天使館のことらしい。それに隣接する久米村は、土塁で周囲を囲み、なかには中国風の家が軒を連ねている(㈰㈪の家数の差は、一五年間の増加を示すものではあるまい)。㈰によれば朝鮮人の住人もいたことになるが、事実とすれば興味ぶかい。㈫の「天妃娘娘殿」は、一四二四年に創建されたもので、航海安全の女神天妃(媽祖《まそ》)を祀る。天妃小学校にある石門はその遺構だ。  天妃は一〇世紀に福建に実在した巫女《みこ》を神格化したもので、その信仰は、華僑の進出にともなって、中国南部から東南アジアを中心にひろく分布している。その痕跡は〈環シナ海地域〉の実在を示す指標となりうる。  通説では、一三九二年に明の洪武帝が※[#「門<虫」、unicode95a9]人三十六姓を琉球に賜与したのが久米村の始まりという。しかしこの説明は、一五八七年の『大明会典』にはじめて登場し、『中山世鑑』等にうけつがれたもので、同時代の史料で検証してみると、かれら福建からの渡来人はある時点でいっせいに渡来したわけではなく、一三九二年よりも前に渡来した例も認められる。「三十六」も実数を示すものとは考えられない。  しかし洪武帝による賜与という点は一分の真実をふくんでいる。かれらの渡航はまったく自由な経済活動によるものとはいえず、琉球を朝貢貿易体制に位置づけた明が、琉球の貿易・外交を支援するために送りこんだという面がある。これは、明初に琉球が海外交易に使った船が明から賜与されたものだったことと通じる。  たとえば、一三七〇年ころ渡来した程復は、浙江省|饒《じよう》州の人で、察度王に仕えて領地をもらい、通事を勤めて明との往来進貢に労功を重ねた。一三九二年、程復は業希尹とともに明に使いし、明の官職・冠帯の賜与を願った。その意図は、琉球の臣民に明崇拝の意識を植えつけ、蛮俗を易えるところにあった。一四一一年、程復は明の永楽帝に「琉球王に仕えて四〇余年、齢八一を数えるまで勤誠おこたることがなかった。いまは辞職して故郷へ帰ることを命じていただきたい」と願い、帝は、かれを「琉球国相兼左長史」に昇任させたうえで、饒州に帰らせた。  この例からつぎの二点がわかる。第一に、かれは四〇年以上も琉球で活動しながら、あくまで中国に帰属意識をもち続けたこと。第二に、かれの人事は基本的に明の皇帝権力の意思で決定されていたこと。  ※[#「門<虫」、unicode95a9]人三十六姓のように、渡来中国人が現地の権力機構のなかでなかば公的な位置づけを与えられることは、貿易事業の継続を望む中国商人にとっても、外交能力の確保と貿易体制の強化をねらう現地権力にとっても、好都合なことだったから、同様の事態は東南アジア諸国にひろく見られた。  たとえばジャワのグレシクでは、広東人一千余家が集住する「新村」という地域があり、各地から現地人が集まってきて売買を行なったという。シャムのアユタヤにもおなじような中国人居留地「※[#「女+乃」、unicode5976]街」があった。  あるとき明を訪れたマラッカの使者亜劉は、もと江西省万安に住む蕭明挙という中国人だったが、罪を犯してマラッカへ逃亡し、通事にとりたてられた者である。スマトラのパレンバンは華僑の連合政権といってよいが、そのなかでも有力な施一族のひとり施済孫は、琉球渡来中国人の最高位である王相の懐機と、直接外交文書をやりとりしている。  以上のようにアジア諸国間の外交関係とは、一皮むけば華僑相互のネットワークにほかならなかった。  一五世紀後半になると、久米村人にも明の制御からはずれた行動が目立ち始める。一四五二年の『明実録』の記事に、「福建沿海の居民が、海禁で中国の貨物を売りさばくことができないので、兵器を造備し、海船に乗って琉球国と交通し、琉球人をひきこんで海賊を働いている」とある。一四七四年に福州で琉球国使臣による殺人・放火事件があったことは前述した。  さらに一五四二年の『明実録』によれば、福建省※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州の人陳貴は、大船に乗って私《わたくし》に海外と通じ、琉球国の長史である通事蔡廷美(久米村人)の手引で那覇に入港したが、そこで広東省潮陽県の海船と利を争い、たがいに殺傷におよんだ。尚清王の奏上でこの事件を知った明は、「蔡廷美は厳重に拘留すべきところだが、琉球はもと朝貢の国であるから、しばらく寛大に扱って釈放する。今後なお改悛しなければ、即時に朝貢を絶つ」と琉球に通告した。  一六世紀、琉球の海外交易の退潮が決定的になると、当然ながら久米村も衰退の一途をたどった。明の冊封使の報告は、「三十六姓で今に残るものは七姓にすぎない」(一五七九年)とか、「三十六姓で落ちぶれるものが多く、いまは六家を存するのみ、居住の地もなかば廃墟と化している」(一六〇五年)と伝えている。航海術も低下し、このころの進貢船はしばしば航路を誤って福州以外に流れつく始末だった。  ついに一六〇七年、尚寧王は三十六姓をふたたび下賜するよう明に願った。旧三十六姓が衰微する一方で、当時の進貢には比較的近年に渡来・定着した福建人が不可欠となっており、再下賜にはかれらの存在を明によって認知してもらうという意味あいがあった。しかし明の回答は、阮・毛の二姓を琉球籍に入れることを許したにとどまった。  一六〇九年の島津氏侵入後、琉球は幕藩体制下の特殊な異国として存続を許され、明、ついで清への進貢も維持された。王府は久米村の振興に力をそそぎ、一七世紀には進貢と文教を二大職分としてふたたび隆盛をみるにいたった。 †『歴代宝案』に見る南海交易[#「『歴代宝案』に見る南海交易」はゴシック体]  久米村人の担った重要な外交業務のひとつに、外交文書の起草がある。一五三〇年ころ京都の東福寺を訪れた琉球の禅僧|鶴翁智仙《かくおうちせん》は、著名な文筆僧|月舟寿桂《げつしゆうじゆけい》に、「琉球の国人は字を知らず、商売で利を得ています。久米村という一集落があり、ここの人は代々学問を修めておりますので、(王は)そのうちで文をよくする者に命じて、隣国往還の書を作らせます」と説明している(「幻雲文集」)。  中国を中心とする東アジア・東南アジアの国際社会では、外交文書は共通の文字・言語である漢文で書かれ、文書様式も純粋に中国国内の公文書の様式が用いられた。久米村人はこの業務を滞りなくはたすために、みずからが起草した外交文書の控えと、相手国から到来した外交文書の写しを、参考資料として蓄積した。ある時期に琉球王府の命でこれが一書にまとめられ、『歴代宝案』と命名された。 『歴代宝案』は第一集・第二集あわせて二五二冊におよぶ膨大な外交文書集で、一四二四年から一八六七年までの中国(明・清)、朝鮮、東南アジア諸国との往復文書を収めている。琉球の外交・貿易を知る一級史料であるだけでなく、その国家機構や、東アジアの公文書の様式・文体、あるいは船舶・航海の技術など、多くのことを語ってくれる。まことに「宝案」の名に恥じない貴重な文献である。  ここでは一通だけ、もっとも古い年代に近い文書を読んでみよう。洪煕元年(一四二五)、琉球国中山王尚巴志がシャム(現在のタイ)国に宛てた、咨文という形式の文書である。 [#ここから2字下げ]  琉球国中山王、為 進貢事、切照、本国希少貢物、為此(1)、今遣正使浮那姑是等、坐駕仁字号海船(2)、装載 [#ここから3字下げ] 磁器、前往 貴国出産地面、収買楜椒・蘇木等貨、回貨以備 [#ここから1字下げ]  進貢 大明御前、仍備礼物、 [#ここから3字下げ] 詣前奉献、少伸遠意、幸希収納、仍煩聴(3)、今差去人員、及早(4)打発(5)、※[#「走+旱」、unicode8D95]趁(6)風迅(7)回国、庶使四海一家永通盟好、今将奉献礼物数目、開坐(8)于後、須至咨者(9)、  今開 [#ここから5字下げ] 織金段五匹  素段弐拾匹 腰刀五柄   摺紙扇参拾柄 硫黄五阡斤今報弐阡五佰斤正 大青盤弐拾箇 小青盤肆佰箇 小青碗弐阡箇 [#ここから3字下げ] 右 咨 暹羅国 [#ここから2字下げ] 洪煕元年 月 日  咨 [#ここで字下げ終わり] [#2字下げ](1)為此 公文書用語で、前文を受け、それを下文の理由づけとする定型表現。同級機関の来文を引用した後、自己の意見を述べるときなどに用いる。(2)仁字号海船 明は琉球に貿易船を賜与したが、それらには「仁字号」「恭字号」など漢字一字の名があった。琉球ではこれに「小梯那之麻魯《こてなしまろ》」等琉球風の名をつけて呼んだ。(3)煩聴 公文書用語で「以下のことを願う」の意。(4)及早 早いうちに。(5)打発 ひまをやる。(6)|※[#「走+旱」、unicode8D95]趁《かんてん》 走る。(7)風迅 季節風。(8)開坐 リストアップ。(9)須至咨者 咨文の書止めの定型表現。  まず文書の字配りに注目しよう。「貴国」で平出(改行)、「進貢」で一字擡頭(改行のうえ次行の頭を突き出す)、「大明」で二字擡頭を行なっている。平出・擡頭は相手に対する敬意をあらわす方法で、平出→一字擡頭→二字擡頭の順で敬意の度が強くなる。明を中心とする冊封体制のなかに琉球とシャムが参入している状況が、文書の表面に忠実に反映している。  つぎに文書の大意を示す。 [#2字下げ]琉球国中山王より、進貢のことにつき申し上げます。本国は進貢物に恵まれませんので、今正使|浮那姑是《ふなくし》らを(貴国に)遣わし、仁字号の海船に乗務させて、磁器を積みこんで、貴国の地に赴かせ、胡椒・蘇木などの品を買い付けて帰り、もって大明の御前への進貢に備えたいと思います。あわせて(貴国への)礼物をもたせ、前に進んで奉献し、少しくご挨拶を述べさせます。お納めいただければ幸いです。さらにお願いしたいことは、いま差し遣わしました人員には、早急にお暇をいただいて、季節風を逃さず帰国できますよう。四海を一家とし、すえ永く友好を誓いあうことを切望いたします。いま奉献する礼物の品目と数量を後に列記いたしました。  礼物のうち、織物の織金段・素段と大小の青磁は中国、腰刀・摺紙扇は日本、硫黄は琉球の産物であろう。おもな貿易品は中国産の磁器で、これをシャムで売って胡椒・蘇木などを買い付け、明への進貢の品に宛てたい、という。琉球の中継貿易の実態がよくうかがわれる。 †辞令書は語る[#「辞令書は語る」はゴシック体]  琉球の現地に残る数すくない古琉球期の同時代史料に、辞令書と呼ばれる古文書がある。王国の運営組織を解明するための第一級の史料である。高良倉吉の研究によりながら、辞令書の語ることばに耳をかたむけてみよう。  辞令書には共通して左のような特徴がある。  ㈰原則としてひらかなで表記。  ㈪中国年号を使用。  ㈫「しよりの御ミ事」の文言で始まり、文書の端と奥(継紙の場合は紙継目にも)のそれぞれ上部に「首里之印」と刻んだ朱印を捺す。  ㈰は、琉球語と日本語の親近性という条件のもと、ヤマトの僧侶によって招来されたかな表記が、『おもろさうし』や一部の碑文だけでなく、公文書にも用いられる公的な表記だったことを物語る。ヤマトではかな表記が私的なものと考えられていたのと対照的で、興味ある事実である。  ㈪は、明との冊封関係にもとづいて琉球が中国暦を使用していたことの当然の結果である。  ㈫は、辞令書の発給主体が国王であることを明示し、定型化された文書様式は、国王の権力が個別の支配関係を超えた一般的支配を実現していたことを物語る。  以上㈰〜㈫を総合すると、辞令書は、琉球とヤマト・中国との関係を象徴的に表現しながらも、琉球の独立した国家権力としての達成を示すものといえる。  では一例として、沖縄本島の田名《だな》家に伝わる現存最古の辞令書を読んでみよう(ゴシック体の文字は「首里之印」の朱印が押されてあった箇所を示す)。   しより[#「しより」はゴシック体]の御ミ事     た[#「た」はゴシック体]うへまいる     たから丸か     くわにしやわ     セいやりとミかひきの     一人しほたるもいてこくに     た[#「た」はゴシック体]まわり申候   しより[#「しより」はゴシック体]よりしほたるもいてこくの方へまいる   |嘉靖二《(一五二三)》[#「嘉靖二」はゴシック体]年八月廿六日   (首里の御命     唐へ参る     宝丸が     官舎は     勢遣富がヒキの     一人シホタルモイ文子に     給わり申し候) [#挿絵(img/fig8.jpg)]  国王が、一五二三年八月二六日付で、「セイヤリトミ・ヒキ」組織の一員であるシホタルモイ文子を、貿易船に乗って中国へ出張する官舎職に任じる、というもの。ここから、琉球の貿易スタッフは民間人でなく王の官僚であり、宝丸は国王所有の官船であることがわかり、国営貿易運営の一端を知ることができる。最後に「しよりよりしほたるもいてこくの方へまいる」と、差出人と受取人をくりかえすのも、辞令書の特徴のひとつである。  古琉球時代の辞令書は現在五八通が確認されているが、そのうち半分ちかい二六通が奄美地域にかかわるものだ。もっとも古いものは尚真王の治世が終ってまもない一五二九年に出されており、沖縄本島に遅れること六年にすぎない。奄美地域に対する首里の支配が、沖縄本島とほぼ同等のものだったことがわかる。  これに対して先島に残る古琉球辞令書は、一五九五年に宮古島大宮古|間切《まぎり》に出された一通だけで、現地を深くとらえた支配は実現されてはいなかったようだ。  奄美地域の辞令書を一通読んでみよう。   しより[#「しより」はゴシック体]の御ミ事    きゝ[#「きゝ」はゴシック体]やのしとおけまきり□    大くすくの大やこハ    ちやくにとミかひきの    一人さわのおきてに    たまわり申候   しより[#「しより」はゴシック体]よりさわのおきての方へまいる   |嘉靖三《(一五五四)》[#「嘉靖三」はゴシック体]十三年八月廿九日   (首里の御命     喜界の志戸桶間切の     大城の大屋子は     謝国富がヒキの     一人沢の掟に     給わり申し候)  国王が、一五五四年八月二九日付で、「ヂャクニトミ・ヒキ」所属の沢の掟に喜界島志戸桶間切の大城大屋子という官職を与える、というもの。近世琉球でもっとも基本的な地方行政区画となる間切が、一六世紀なかばの奄美地域(喜界島は奄美大島の属島といってよい)にすでに存在したことがわかる。喜界町志戸桶の孝野武志氏所蔵で、文書に記す「しとおけまきり」の現地に今も残るという点でも貴重だ。  右にみた二通にみえる「セイヤリトミ・ヒキ」「ヂャクニトミ・ヒキ」とは何だろうか。もう一通の辞令書を見ながら考えてみよう。   しより[#「しより」はゴシック体]の|□□□《(御ミ事)》    ふさ[#「ふさ」はゴシック体]いとミかひきの    けらゑあくかへの    せんとうハ    はゑのこおりの    一人大ミねの大やくもいに    たまわり申候   しより[#「しより」はゴシック体]のより大ミねの大やくもいか方へまいる   |嘉靖四《(一五六二)》[#「嘉靖四」はゴシック体]十一年十二月五日   (首里の御命     相応富がヒキの     家来赤頭の     船頭は     南風の庫理の     一人大嶺の大屋子もいに     給わり申し候)  この文書には「フサイトミ・ヒキ」が登場する。どうやらヒキは王国の重要な支配組織らしい。そして辞令書を通覧すると、ヒキ内部の役職として〈船頭《せんどう》(勢頭とも。主任)—筑殿《ちくとの》(筑登之とも。副主任)—家来赤頭《げらえあくかべ》〉の三ランクが抽出される。また、三通目に見える「こおり(庫理)」も王国の支配組織であるらしい。  高良倉吉は、辞令書の語る断片的なデータから、つぎのように王国の支配組織を復元してみせる。  辞令書に見える三つの庫理(南風《はえ》の庫理、北《にし》の庫理、名称不明の庫理)は、首里城内にある主要官衙で、その長官が三司官である。ヒキは庫理の下部にある軍事組織で、古琉球期には一二あり、各庫理に四つずつが分属し、そのうちのひとつがヒキ頭となった。  ヒキは例外なく「**トミ」という名をもつが、ある辞令書の給与内容に「まなはん(真南蛮、東南アジア)ゑまいるせぢあらとミがちくとの(筑殿)」とあり、この場合の「セヂアラトミ」は東南アジアへ行く海船の名前、筑殿は乗組員の役職だ。『おもろさうし』にも、 [#2字下げ]一聞得大君ぎや/鳴響む精高子が/御島 祈られ/……/又世引き富[#「世引き富」に傍点] 押し浮けて/せぢ新富[#「せぢ新富」に傍点] 刳《く》りうけて/又世付き富[#「世付き富」に傍点] 押し浮けて/雲子富[#「雲子富」に傍点] 刳りうけて/又舞やい富[#「舞やい富」に傍点] 押し浮けて/押し明け富[#「押し明け富」に傍点] 刳りうけて/…… と、海船の名を列挙した作がある。ある人物が、一定期間ヒキに所属し地上勤務をしたのち、海船に乗って貿易に出かけたという例もある。  つまりヒキとは、海外交易に出かける貿易船の運営組織をそのまま王国の支配組織に転写したもので、いわば〈地上の海船〉にほかならない……。  庫理—ヒキの上下関係を明示する史料がないなど、詰めた論証を要する点もあるが、今後の検討に資するところの大きい仮説である。 †薩琉関係と五山系禅僧[#「薩琉関係と五山系禅僧」はゴシック体]  中継貿易の退勢のなかで琉球の独立性はしだいに空洞化してゆくが、そこにつけこんで琉球を従属下に収めていったのが、隣接するヤマトの地域権力、薩摩島津氏である。そのさい薩摩は、表面上は対等の関係を維持しつつ、優勢な武力を背景に自己の意向を琉球におしつけるという手法をとった。そうした外交交渉を直接担ったのが、五山系の禅僧だった。たとえばつぎの例を見よう(『薩藩旧記雑録』後編巻五)。 [#ここから2字下げ] 去歳の春、天竜寺長老、貴命を以て華緘《かかん》(美わしい手紙)を持ち、遥かに南海を航して来り、西鄙《せいひ》(薩摩)に至り、審かに厚意を説く。感戴《かんたい》々々。抑《そもそ》も近年|拙《せつ》(貴久)解印休官《げいんきゆうかん》(引退)し、薩隅日三州の州職を修理大夫《しゆりのだいぶ》義久に付嘱《ふしよく》せり。茲《ここ》に因り、広済住持雪岑《こうさいじゆうじせつしん》長老、更始の儀を伸べんが為、殿下に詣《いた》り、謹んで一書を捧《ささ》げ、微物を献じ、略陋志《ほぼろうし》(愚意)を表わす。件の数は別楮《べつちよ》(別紙)に録したり。伏して願うらくは、永々自他和好し、共に唇歯《しんし》の邦を全うせん者なり。至祝々々。恐惶不宣《きようこうふせん》。   |永禄十《(一五七〇)》三白暮春初二日 [#地付き]島津|入道《(貴久)》伯囿    |琉球《(尚元王)》国王殿下 当国改政(代替り)の礼儀として、広済雪岑長老|朝覲《ちようぎん》(国王との謁見)の次《ついで》、謹んで以て片楮《へんちよ》を呈す。蓋《けだ》し伝え聞く、比年(最近)商船、当家の印判《いんばん》を帯せず、擅《ほしいま》まに旧制を犯す者|惟《こ》れ多し、と。仰ぎ望むらくは、後日|若《も》し違背の輩有らば、細察を加え、刑治を究め、堅く郎藉奸党《ろうぜきかんとう》を停止せらるべし。委曲は長老の舌端に詳《つまび》らかなり。恐惶|頓首《とんしゆ》。   永禄十三年暮春初一日 [#地付き]川上|入道≪『上野』≫意釣判   呈上 三司官館下 [#ここで字下げ終わり]  一通目は島津氏当主貴久から琉球国王尚元に、二通目は島津家家老川上から琉球国三司官に、それぞれ宛てたもので、双方の同レベルの機関で文書がやりとりされており、琉球—島津の対等関係をあらわしている。内容も貴久の書状のほうは、琉球使の来薩への返礼と義久への代替りの通告であり、「永々自他和好、共に唇歯の邦を全うせん者なり」という文言も対等関係にふさわしい。  ところが川上の書状になると、様式上は対等でも、「近年、商船が当島津家の印判(渡航許可証)を携帯しないで(琉球へ渡航し)、ほしいままに旧制を犯す者が多い。望むらくは、今後もし違反者があったら、詳しく取り調べて厳刑に処し、かたく不法行為を禁じていただきたい」という高圧的な内容が盛りこまれる。琉球側からすれば、商船受け入れの基準を他から押しつけられることになり、あきらかな内政干渉だ。  薩摩は一六世紀初頭以来、ヤマトから琉球に渡航する商船を自己の統制下におこうとしてきた。一五七〇年代は、その試みが大きく一歩を進めた時期だ。  先の貴久書状に名の見える薩摩の使者「広済住持雪岑長老」は、この書状を携えて琉球へ渡航し、疎略な扱いを受けたとして怒って帰国した。一五七五年、琉球は貴久から義久への代替りを祝賀する「あや船」を仕立て、天界寺南叔・金武大屋子を両使として薩摩へ送った。使者を迎えた薩摩側は、琉球の合意条項違反(その中心は、島津家の印判を携行しない舟を琉球が受け入れたこと)と広済寺雪岑への薄待をきびしく問い詰めた。  琉球使の回答は、「その時分は先王尚元が崩御したばかりで、上下とも諸事を忘却するあわただしさで、不本意ながら受け入れてしまった」という受身のものだった。この事件以後、琉球は毎年のように薩摩に使者を派遣し、島津氏への書簡の文面や進物においても、従来以上の丁重さを示さざるをえなくなった。 「あや船一件」と呼ばれるこの事件で重要な役割を演じた「雪岑長老」とは、諱《いみな》を津興《しんこう》といい、薩摩国伊集院にある臨済宗南禅寺派の寺院|広済寺《こうさいじ》の住持である。 [#挿絵(img/fig9.jpg)]  南禅寺二世|規庵祖円《きあんそえん》に始まる右の法系において、南仲景周《なんちゆちけいしゆう》から雪岑津興までは代々広済寺に住し、俗系による島津氏とのつながりも深かった。その分流の雲夢崇沢《うんぼうすうたく》は大隅安国寺の住持で、その弟子|檀渓全叢《だんけいぜんそう》は琉球に渡って天王寺の住持となり、一五二六年には琉球の外交使節として京都に来ている。その後檀渓は琉球円覚寺の八世に昇り、王府の対ヤマト外交を担当する僧録司を務めた。  薩摩の使僧雪岑と、琉球の僧録司檀渓。ふたりはまったく逆の立場のように見えるが、じつは京都五山を頂点とするひとつの寺院社会に属していたのであって、そこから自立して琉球の禅林が存在したわけではない。琉球禅林を牛耳っていたヤマトからの渡海僧は、琉球国王の臣下であると同時に、あるいはそれ以上に、京都の五山の一員だった。  琉球をも包摂する五山の組織的・人的ネットワークを通じて、ヤマトの宗教的・文化的・政治的影響が琉球におよんだ。一七世紀の琉球で、国家体制の起源を語り、島津への従属を正当化するふたつの「附庸神話」——第一の「嘉吉附庸説」は、嘉吉元年(一四四一)、島津忠国が大覚寺|義昭《ぎしよう》追討の賞として、将軍足利義教から琉球を賜ったというもの、第二の「為朝始祖説」は、保元の乱に敗れて伊豆大島に流された源為朝が、のち琉球に渡って住民を従え、その子が最初の琉球王(舜天王)となったとするもの——が確立するが、ともにこの五山ネットワークのなかから形成されてきたものと考えられる。 †薩摩の琉球征服と近世国家[#「薩摩の琉球征服と近世国家」はゴシック体]  一五八七年、島津氏が豊臣秀吉の圧倒的な軍事的脅迫に屈すると、薩摩—琉球関係にも転機が訪れる。一五九一年には秀吉から島津氏に対して、朝鮮侵略のため薩摩・琉球の分として一万五千の兵を出せという要求があり、島津義久は、琉球分の兵役を免除するかわりに、七千人・一〇カ月分の兵粮米と名護屋城普請費用を負担するよう、尚寧王に要求した。琉球がこの要求に大略応じたことは、琉球を島津の「与力」とするヤマト—薩摩側の論理への屈伏を意味する。琉球はなかばヤマトの国家領域のなかに繰りこまれようとしていた。  一五九八年の秀吉の死、一六〇〇年の関ケ原の戦いを経た一六〇六年、島津氏は奄美大島侵略を計画し、徳川家康の許可をとりつけたが、家康が示した出兵の名目は、「大島入り」から「琉球入り」に変わっていた。島津氏の意図が領土拡大にあったのに対し、幕府は対明復交のために琉球の来聘を実現させることに重点をおいていたのである。  一六〇九年、三千の薩摩軍が琉球に侵入し、さほどの武力抵抗にも遭わず、首里を占領した。尚寧王は人質として鹿児島に連行された。この事件の結果、奄美地域は完全に島津藩領に割き取られ、奄美をのぞく琉球王国の版図も、幕府から薩摩藩に安堵される領地という法的形式をとった。  しかし幕府には、明との復交の道をさぐるために、明の冊封国である琉球を利用しようという思惑があり、また薩摩藩にも、異国を従える雄藩ぶりを誇示したいという動機があったので、琉球は独立国の外見をとることを許され、国王の地位や中国との冊封関係もそのまま維持された。以後明治まで続くこの体制を「近世琉球」と呼んでいる。  尚寧王は、鹿児島で三年の幽閉生活を送ったあと、琉球へ帰ることを許されたが、その後まもない一六一三年、「大明国福建軍門老大人」に日明勘合貿易の復活について三つの方法を示し、そのいずれかを選ぶよう求めた。この外交文書は、主語は琉球国王でも、島津の琉球侵略を天命といい、自身の鹿児島幽閉を礼遇というなど、琉球の主体性などみじんも見られない。  それも道理で、これは幕府の意向を受けた島津氏が尚寧王に出させたものであり、しかも起草者は島津氏の外交ブレーンである禅僧|文之玄昌《ぶんしげんしよう》だった。しかも琉球王の外交顧問というべき僧録司=円覚寺住持は、当時文之の法弟|春蘆祖陽《しゆんろそよう》だった。このカイライ外交が文之と春蘆の連繋プレイに支えられていたことは想像にかたくない。 [#改ページ]   【第4章[#「第4章」はゴシック体]】 ヨーロッパの登場とアジア海域世界 [#扉裏(img/map4.jpg)] †世界の十字路マラッカ[#「世界の十字路マラッカ」はゴシック体]  一六世紀の東アジアに最初にあらわれたヨーロッパ勢力はポルトガルだった。一四九八年、バスコ=ダ=ガマが喜望峰をまわってインド西南海岸のカリカットに到達、ついで一五一〇年、第二代インド提督アフォンソ=デ=アルブケルケ(一四五三〜一五一五)の艦隊が、カリカットの北北西五〇〇キロの港町ゴアを占領して海軍基地をおいた。ここにゴアはポルトガル帝国のアジアにおける首都となり、カトリックのアジア伝道のセンターともなった。  翌一五一一年、アルブケルケの艦隊ははやくもマラッカ海峡を扼する交通の要衝マラッカにあらわれ、一五世紀初頭以来明に朝貢を続け、南海貿易でさかえていたマラッカ王国を滅ぼした。ポルトガルはこの地に商館を置いて東方進出の拠点とした。一五一二年、アルブケルケはマルク(モルッカ)諸島における香料交易の拠点アンボン(アンボイナ)に部下を派遣し、ここにも商館をおいた。  当初ポルトガルの目的は、マルク諸島を中心に産する香料の獲得にあったと思われるが、マラッカは諸民族入り乱れる交易の一大拠点だったため、必然的にポルトガル人の眼は東アジアへも導かれることになった。一五一二年から一五年までマラッカ商館に滞在したポルトガル人トメ=ピレスは、著書『東方諸国記』に、「マラカで取引していた人々とかれらが出て来た地方」の名前を書き連ねている。西はトルコから東は琉球・中国にいたるおびただしい民族・国家・地域が、マラッカと交流をもっていたことがわかる。  まずマラッカより西の諸地方として——カイロ、メッカ、アデンのイスラム教徒、アビシア人、キルワ、メリンディ、オルムズの人々、ペルシア人、ルーム人、トルコ人、トルクマン人、アルメニア人のキリスト教徒、グザラテ人、シャウル、ダブル、ゴア、ダケン王国の人々、マラバル人、ケリン人、オリシャ、セイラン、ベンガラ、アラカンの商人、ペグー人、シアン人、ケダの人々、マラヨ人。マラッカより北の諸地方として——パハンの人々、パタニ人、カンボジャ人、シャンパ(占城)人、カウシ・シナ(交趾支那)人、シナの人々、レケオ(琉球)人。マラッカより東北の諸地方として——ブルネイ人、ルソン人、タンジョンプラ人、ラヴェ人。マラッカより東の諸地方として——バンカ人、リンガ人、マルコ人、バンダ人、ビマ人、ティモル人、マドゥラ人、ジャオア人、スンダ人。スマトラ島の諸地方として——パリンバン、ジャンビ、トゥンカル、アンダルゲリ、カポ、カンパル、メナンカボ、シアク、ルパト、アルカ〔アルカト〕、アル、バタ、すなわちトミアノの国、パセー、ペディル。最後に、〔マル〕ディヴァの人々。  これに続けてピレスはこう付け加えている。 [#2字下げ]この他にも多数の島とその他の地域があり、そこから多数の奴隷と多量の米が来る。……〔ある地方の〕人々が当地に来ない場合は、マラカから人々がそこに行く。なおマラカでその住民とマラカに居留している人々が断言するところによれば、マラカの港ではしばしば八十四の言語がそれぞれ〔話されるのが〕見られるということである。なぜならばシンガプラとカリマン〔カリムン島〕からはじまってマルコに至る島々の諸島には四十の言語が知られており、〔その他の〕島々も無数にあるからである。  この交易ネットワークは、ポルトガル人があらわれる以前からアジアに存在していたものであって、ポルトガル人は新参者としてそこに割りこんだにすぎない。ただ、それだけにネットワークの要に位置するマラッカがかれらの手に落ちたことの意味は大きかった。  ポルトガルはマラッカで琉球《レキオ》の存在を知り、そのむこうにある日本をも知った。『東方諸国記』は一五一五年には成立していたと考えられるが、すでに琉球に関するかなりくわしい記述がある。ピレスは、「シナ人以下すべての国民は、ポルトガル人がミラノについて語るように、レキオ人について語る。彼らは正直な人間で、奴隷を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも同胞を売ったりしない」と、琉球の文明度の高さを称えている。  琉球人の行なう交易については、フォケン(福建)に赴いてシナ人と取引をし、ジャンポン(日本)に赴いて黄金と銅を買い入れ、マラッカには黄金・銅・武器・工芸品・小麦・紙・生糸・麝香・陶器・緞子などを携えてあらわれ、シナ人がもち帰るのとおなじ品物やベンガル産の衣服をもち帰る、などと記している。  そして琉球記事の最後に、つけたりのように日本のことを記す。ポルトガル人の残した最初の日本記録である。 [#2字下げ]すべてのシナ人のいうことによると、ジャンポン島はレキオ人の島々よりも大きく、国王はより強力で偉大である。それは商品にも自然の産物にも恵まれていない。国王は異教徒で、シナの国王の臣下である。彼らがシナと取引をすることはまれであるが、それは遠く離れていることと、彼らがジュンコ(ジャンク)を持たず、また海洋国民ではないからである。レキオ人は七、八日でジャンポンに赴き、上記の商品を携えて行く。そして黄金や銅と交換する。レキオ人のところから来るものは、みなレキオ人がジャンポンから携えて来るものである。レキオ人はジャンポンの人々と漁網やその他の商品で取引する。  当時の日本が一次産品である鉱物を供給する存在で、しかも海洋国民でない[#「でない」に傍点]、という認識は、日本がアジア・ネットワークの東の辺境だったことを思い知らせてくれる。 †「仏朗機夷」と王直[#「「仏朗機夷」と王直」はゴシック体]——双嶼の密貿易[#「双嶼の密貿易」はゴシック体]  一五一七年、フェルナン=ペレス=デ=アンドラーデは、ポルトガル国王から遣明大使の命を受けたピレスをともない、五隻の艦隊をひきいて広州へ赴いた。これもマラッカ・中国間に古くからある交易路を利用している(『東方諸国記』二四二頁)。広州では貿易を許されたものの、正式の国交を開く交渉は難航し、翌年アンドラーデはピレスを残してマラッカへ帰航した。  ピレスは一五二〇年にようやく北京にいたったが、その間にポルトガル艦隊による示威行動や、ポルトガルの侵略を訴えるマラッカ王使節の北京到来などがあったため、皇帝への謁見は許されず、翌年ピレスはむなしく広州へ帰り、投獄されてしまう。明は来航するポルトガル船を「仏朗機《フランキ》夷」と呼んで打ち払うにいたった。  そこでポルトガル人は密貿易に転じ、まず広州近海の上川島(タマウ)を根拠地とし、ついで東進して※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州に近い月港、舟山諸島の双嶼(リャンポー)などへ進出した。  双嶼港は舟山諸島南部六横山(島名)の東岸、仏肚山との海峡に面した港で、海峡にある双子の小島からこの名がついた。中国側の史料『日本一鑑』(窮河話海巻六)によれば、双嶼は一五二六年ころから福建の脱獄海賊※[#「けものへん+」、unicode7360]が「番夷を誘引して」南海方面との密貿易の基地としたところである。ポルトガル側の史料には、「寧波」の福建語発音「リャンポー」の名で見えるが、これは現在の寧波市ではなく、寧波府管内にあった双嶼を指すと考えられる。 [#挿絵(img/fig10.jpg)]  一五四〇年、王直以前の倭寇の首領として名高い許棟兄弟が、マラッカに赴いて多数の仏朗機国夷人(ポルトガル人)を浙江省の海に誘引した。許棟が双嶼にあらわれるのは一五四三年らしいが、このころにはポルトガル人も双嶼に定着しただろう。ポルトガルの東方進出は、中国人密貿易商に誘われ、かれらの築きあげていた密貿易ルートに乗って、はじめて実現したものだった。そのことをポルトガル人ガスパール=ダ=クルスはつぎのように述べている。 [#2字下げ]マラッカ・パタニなどの南海諸島にあって本国に帰ることを許されないシナ人が、ポルトガル人と結んでひそかに中国に貿易に来たが、広東でポルトガル人の貿易が禁じられるにおよんで、貿易を続けるためにリャンポーにポルトガル人を導くにいたった。……リャンポーでは、食糧を売って大きな利益があったので、ポルトガル人の来航をとても喜んだ。ポルトガル人を連れてきた在外シナ人は、リャンポー近くの沿岸の村に縁故があり、知人も多かったので、ポルトガル人は厚遇され、在外シナ人を介して土地の商人と交易ができて、両者ともに利を得るところが多かった。  その後まもなく双嶼に、のちの〈倭寇王〉王直にともなわれて、日本人の姿があらわれる。関連史料を示そう。  ㈰『鉄炮記』には、「天文癸卯(一五四三)八月二五日、種子島に大船が着き、乗っていたポルトガル人が鉄砲を伝えたが、この船に「大明儒生五峯」が同乗していた」とある。  ㈪『籌海図編』巻八には、「許棟は王直の故主で、はじめは西番人を引きこんで交易するだけだったが、嘉靖二三年(一五四四)にはじめて日本に通じた」、あるいは「王直は嘉靖二三年(一五四四)に許棟勢力に加わり、その会計係になった」、あるいは「日本人が中国に来て密貿易を行なったはじめは嘉靖二三年(一五四四)である。許棟のときは貨物を載せて日本へ行くだけで、日本人を連れてくることはなかったが、許棟が敗没したのち、王直がはじめて倭人を用いて羽翼とした」、とある。  ㈫『日本一鑑』巻六には、「王直は乙巳歳(一五四五)に日本へ行き、はじめて博多津の倭人助才門(助左衛門)ら三人を誘引して、双嶼で貿易をさせ、明年また日本へ行った。これが直浙倭患(嘉靖大倭寇のこと)の始まりである」とある。  王直の伝記史料である「禽獲王直」(『籌海図編』巻九・大捷考)によれば、王直は安徽《あんき》省徽州|歙《きゆう》県の生まれで、若いころから任侠集団に身を投じて人望が篤く、葉宗満ら「一時の悪少」たちと謀って、海禁を破り海外に乗り出した。一五四〇年、まず宗満らとともに広東に行き、巨船を造って硫黄・生糸・綿などの禁制品を積み、「日本・暹羅(シャム)・西洋(南海諸島)等の国に抵《いた》り、往来互市すること五・六年」、巨万の富を得たという。このころから「五峯船主」と呼ばれたらしい。  この史料をすなおに読めば、王直が日本・シャム・西洋を往来していたのは一五四〇年から四四、五年にかけてである。その間暹羅・西洋のあたりでポルトガル勢力と接触があったことは想像にかたくない。そしてその期間のおわり近くの四四年に双嶼にあらわれた(㈪)のである。  従来、㈰の伝える鉄砲伝来が一五四三年で、王直が双嶼にあらわれる四四年より一年前であることから、㈰の「大明儒生五峯」を王直に宛てることにためらいがあった。しかし右の考察によれば、王直は、双嶼に姿をあらわすよりまえに[#「まえに」に傍点]東南アジアでポルトガル人と接触があり、かれらを導いて日本に来ていたことになり、諸史料の間になんの矛盾も生じない。またのちに紹介するポルトガル史料に、一五四二年ポルトガル人がシャムからジャンクに乗って出発した、とあるのともマッチするのである。また㈫によって王直の日本初来を一五四五年とする説があるが、これはあくまで博多への初来であって、日本渡航としては二度目(またはそれ以上)と解すべきである。  こうすれば㈰〜㈫を、一五四三年に王直がポルトガル人を導いて種子島に至り、翌四四年に双嶼にあらわれ、許棟の勢力と合体してその会計係となり、四五年に再度日本へ行って、博多商人を双嶼に連れてきた、という流れで理解できる。  以上の経過を【年表1】にまとめておく。 [#挿絵(img/fig11.jpg)] †「新貢三大船」と種子島[#「「新貢三大船」と種子島」はゴシック体]  なお残る問題は、つぎの史料㈬〜㈮を、㈰〜㈫とどう関連づけて理解するかである。  ㈬『種子島家譜』には、「天文一三年(一五四四)四月一四日、二合船が解纜渡唐し、同一四年(一五四五)六月一四日に帰朝した」とある。  ㈭『明実録』には、「嘉靖二三年(一五四四)八月、倭使釈寿光らが来貢したが、十年一貢の原則に反し(一五三九年入貢・四一年回国の第一八次遣明船から三年しか経っていない)、表文ももっていなかったので、方物を受け取らずに追い返した。ところが寿光らは中国の財物を得ようとして、翌年四月に至るもまだ立ち去らない」とある。  ㈮『鉄炮記』には、「天文壬寅(一五四二)・癸卯(一五四三)の交、新貢の三大船が入明しようとし、船を種子島に艤し、天の時を待って出帆したが、嵐に遭い、一貢船は沈没し、二貢船は寧波に達し、三貢船は種子島に引き返したが翌年(一五四四)ふたたび解纜して入明した」とある。  ㈮の「二貢船」と㈬の「二合船」とは同一で、この船に㈭に見える寿光が乗っていたことは、㈮に「二貢船が寧波に達した」とあることから、まずまちがいない。この船は一五四三年に種子島を出発したが、嵐のため(おそらく三貢船と同様)種子島へ引き返し、翌四四年四月再度出港、八月に寧波に入港し、四五年四月以降に同地を出港、六月に種子島に帰着した。 『籌海図編』(巻八・寇踪分合始末図譜)には、王直は双嶼で許棟と合流した後、「貢使[#「貢使」に傍点]に随って日本に至」った、とあるから、一五四五年に王直が日本へ行ったとき乗った船(㈫)は、この二貢船であろう。もしそうなら、二貢船は寧波を出港後、双嶼に回って王直を乗船させたことになり、王直は種子島を経て博多へ行ったことになる。  他方「三貢船」については、『鉄炮記』によれば、一五四四年渡航に成功し、海貨・蛮珍を満載して帰国の途についたが、大洋中で嵐に遭い、伊豆に漂着したという。この船は㈭の寿光の乗船ではない。なぜなら、寿光の船には「貢使に随って日本に至」ったという王直が乗っていたはずで、かれはまもなく博多に姿をあらわすのだから、その乗船が伊豆に着いたという三貢船ではありえないのである。したがって三貢船は入明したが寧波へは入港しなかったのであり、海貨・蛮珍を満載したのも寧波以外での密貿易によるものと考えられる。  なお『鉄炮記』によれば、この船には種子島氏の臣松下五郎三郎が鉄砲を携えて乗っており、これが関東に鉄砲の伝わったはじめという。  以上の経過を【年表2】にまとめておく。 [#挿絵(img/fig12.jpg)]  右に考えたところに従えば、種子島からの「二貢船」は、はじめ寧波に入港して朝貢貿易を求めたが断られ、ついで双嶼に廻って密貿易を行ない利を得たことになる。つまりこの船は、一六世紀なかば、日明交通の基軸が朝貢貿易から密貿易へとシフトする動きを、象徴するものであった。そして王直こそこの転換のキーパースンだった。  では種子島から貢船を明に送り出した主体は誰なのだろうか。『鉄炮記』には「畿内以西の富家の子弟で進んで商客となった者が千人以上、船乗りで神のごとく操船術に長けた者が数百人、わが小島(種子島)で出港の準備をした」とある。もとより誇張はあるにせよ、これだけの貿易船団の編成は、種子島氏単独では不可能だろう。そこで参考になるのが、ポルトガル人メンデス=ピントの記述である(『東洋遍歴記』第一三五章)。 [#2字下げ]さまざまな気晴らしに日を過ごしながら、私たちがのんびりと満ち足りて、この種子島《イリヤ・デ・タニシユマ》に滞在すること二十三日経った時、この港に豊後《ブンゴ》王国から[#「王国から」に傍点]、多数の商人の乗っている一隻の[#「多数の商人の乗っている一隻の」に傍点]船《ナウ》が着いた[#「が着いた」に傍点]。……〔ナウタキン(直時=時堯の前名)は〕私たちをそばに呼び、少し離れたところにいた通訳に合図して、彼を通じて言った。「我が友人よ、今渡された、余の主君であり[#「余の主君であり」に傍点]、かつおじである豊後王[#「かつおじである豊後王」に傍点]のこの手紙を読むのを是非聞いて貰いたい。それから、お前たちへの頼みを言うことにしよう。」……  ピントは鉄砲伝来の場にいたポルトガル人のひとりとして語るのだが、それは事実とは認めがたい。しかし『東洋遍歴記』の研究によれば、かれが種子島に来たことは事実で、その年代は一五四四年だという。これはまさしく「二合船」が種子島から出発して明にむかった年にあたる(㈬)。かれは自分が目撃した貢船のことを鉄砲伝来の物語に織りこんだ。それが右の叙述なのではないか。とすると右に見える豊後王、すなわち大友義鑑こそ、貢船の派遣主体ということになろう。 †鉄砲伝来の実像[#「鉄砲伝来の実像」はゴシック体]  ここでもう一度、薩摩の禅僧文之玄昌(南浦)が慶長一一年(一六〇六)に書いた『鉄炮記』(『南浦文集』巻一所収)の伝えるところをたしかめておこう。 [#2字下げ]天文癸卯(一五四三)八月二五日、種子島に百余人の船客をのせた大船が着いた。乗っていた「大明儒生五峯」が筆談で語ったところによると、船客は「西南蛮種の賈胡」で、貿易のために来たという。賈胡の長の名を牟良叔舎・喜利志太侘孟太といった。ふたりは島主種子島時堯の前で鉄砲を放って見せ、「希世の珍」と感じ入った時堯は、大金を投じてこれを買い取った。  ところが、ポルトガル人アントーニオ=ガルバン(モルッカ総督)が一五六三年に著した『諸国新旧発見記』には、こう記されている。 [#2字下げ]一五四二年、ディオゴ=デ=フレイタスがシャム国ドドラ市に一船のカピタンとして滞在中、その船より三人のポルトガル人が一艘のジャンクに乗って脱走し、シナに向かった。その名をアントーニオ=ダ=モッタ、フランシスコ=ゼイモト、アントーニオ=ペイショットという。彼らは北方三〇度余に位置するリャンポー市に入港しようとしたが、うしろから激しい暴風雨が襲ってきて、かれらを陸から遠ざけてしまった。こうして数日、東の方三二度の位置にひとつの島を見た。これが人々のジャポンエスと称し、古書にその財宝について語り伝えるジパンガスのようである。  このように日本史料とポルトガル史料に一年のずれがあることが、長年、研究者を悩ませてきた。またポルトガル人の名前も、牟良叔舎をフランシスコの音写とみてフランシスコ=ゼイモトに、侘孟太をダ=モッタの音写とみてアントーニオ=ダ=モッタにあてるのはよいが、ペイショットにあたる名が「鉄炮記」には見えず、逆に「鉄炮記」の「喜利志太」が浮いてしまう。  幸田成友『日欧交通史』は、イスパニア商人ガルシア=デ=エスカランテ=アルバラードがディオゴ=デ=フレイタスから聞いたポルトガル人の二度の琉球《レキオス》渡航の情報を紹介し、その一度めがガルバンの記述に符合することを指摘した。 [#ここから2字下げ] 彼(フレイタス)と一緒にそこ(シャム)にいた中の、ポルトガル人二人がチナ沿岸で商売しようと一隻のジャンクで向ったが、彼らは暴風雨にあってレキオスのある島へ漂着した。そこで彼らはその島々の国王から手厚いもてなしを受けた。それは、シャムで交際したことがある(レキオ人の)友人たちのとりなしによるものであった。彼らは食料を提供され立ち去った。 これらの人々が(レキオ人の)礼儀正しさや富を目撃したことから、他のポルトガル商人たちもチナのジャンクに乗って再びそこへ行った。彼らはチナ沿岸を東に航海し、さきの島に着いたが、今回は上陸を許されず、……退去を命ぜられた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](岸野久『西洋人の日本発見』による)  エスカランテは、メキシコ副王が一五四二年にアジアへむけて派遣したルイ=ロペス=デ=ビリャロボス艦隊の随員で、同艦隊は翌年二月にフィリピンのミンダナオ島に到着したが、メキシコ帰航に失敗して、一五四五年一一月マルク諸島のティドレ島でポルトガル人に投降した。  この間、一五四四年一二月にフレイタスはビリャロボスと会談しており、エスカランテがフレイタスからレキオスの情報を得たのもおなじころと考えられる。このことから幸田は、ポルトガル人のレキオス渡航は、第一回めが一五四二年、第二回めが一五四三年とするのが至当だとした。  これを受けて所荘吉は、一五四二年にポルトガル人が種子島に漂着したが、このとき鉄砲伝来はなく、鉄砲は翌年再度の来航時に伝えられた、と解した。いっぽうドイツのイエズス会史研究家ゲオルク=シュールハンマーも、ポルトガル人の一度めのレキオス渡航を一五四二年、二度めを四三年とするが、ガルバンよりもエスカランテの記述に信をおいて、一度めは琉球にいたっただけとし、「鉄炮記」の記事を採用して、二度めにようやく種子島にいたった、と考えた。  エスカランテのいう「レキオスのある島」を、所荘吉は種子島、シュールハンマーは琉球と解するわけだが、後者の説では、エスカランテは二度めもおなじ島に着いたと記しているのに、これをあえて種子島と解するという無理がある。また所は、ガルバンに北緯三二度の島とあるのを根拠に、一度めの漂着地を薩摩の阿久根に修正したが、その結果おなじ矛盾に逢着することになった。  連年、再度のポルトガル人渡来の事実は、じつは「鉄炮記」にも記されている。すなわち一回目の渡来の翌年、また「蛮種の賈胡」が種子島の熊野浦にあらわれたので、種子島時堯は、乗っていた一人の鉄匠から砲底を塞ぐ技術を学び、「歳余にして」数十の鉄砲の製造に成功した、という。つまりヨーロッパ史料によれば一五四二年と四三年、「鉄炮記」によれば四三年と四四年にポルトガル人の渡来があったのである。  台湾の史学者李献璋は、「鉄炮記」を深く読んで、二度目のポルトガル人来島が一五四四年だとすると、種子島銃の製造成功は早くて一五四五年になるが、これは「一五四四年に渡明した三貢船に乗っていた松下五郎三郎が種子島銃を携えていた」という記述と矛盾する、と指摘した。そこから李は、初度のポルトガル人渡来を一五四二年とすることで、「鉄砲記」自身の内部矛盾が解消するうえ、ヨーロッパ史料との食いちがいもなくなる、と主張したのである。  三六年も前に提起されながら正当な評価を得られていないこの説こそ、正しく的を射ていた、と私は思う。これに従うと、前述した王直の日本初来も一年引き上げねばならなくなるが、そうしても中国史料との矛盾は生じない。むしろ一五四三年にポルトガル人がふたたび種子島に来たのも、王直に導かれてではなかったか、と思う。  以上をまとめると、ポルトガル人の種子島初来から王直が双嶼にあらわれるまでの経過はこうなる。  一五四二年、王直の船に乗ってシャムから種子島に到着したポルトガル人が鉄砲を伝える。かれらはおなじ船でシャムへ帰り、翌四三年また王直の船で種子島に来、砲底を塞ぐ技術を伝授する。「鉄炮記」にはポルトガル人の再来の季節が記されていないが、かれらはおよそ太陽暦の七・八月ころ南西の季節風に乗じて日本に向かい、一〇・一一月ころ北東の季節風に乗じて日本を立ち去るのが常だったから、かれらがシャムにもどって二度めのレキオス行きの情報をもたらしたのは、太陽暦で同年の暮か、翌四四年のはじめ以降であろう。この情報は当然フレイタスの耳に入り、同年の末、フレイタスからエスカランテに語られる。王直のほうは、同年の南西の季節風に乗って、本来の目的地であった双嶼にあらわれて許棟の集団に加わる。そしてその翌年(一五四五年)、許棟の配下として、貢使寿光に同行してまた種子島へ渡った……。  鉄砲伝来を以上のように考えるなら、その実像は「ポルトガル船が種子島に漂着して西洋式の銃を伝えた」という常識とかなりちがったものになる。ポルトガル人の乗っていた船は西洋式の帆船ナウではなくて中国式のジャンクであり、中国人密貿易商の王直が同乗していた。いやむしろ王直こそ船の経営主体だったと考えたほうがよさそうだ。そして鉄砲それ自体も、ポルトガル人がヨーロッパから携えてきたものではなく、当時東南アジアで使われていたものの可能性がある。  しかしながら私は、最近一部の専門家が唱える「鉄砲伝来はアジアのなかでのできごとだ」「鉄砲を伝えたのは倭寇だ」といった言説に、ある程度の共感は覚えつつも、一〇〇パーセントくみすることはできない。たしかにポルトガルやスペインは既存の交易ルートに乗ってアジアにあらわれた。しかしそれは、かれらがアジアの諸々の海上勢力と同質のものであったことを意味しない。かれらが簡単にマラッカを手に入れたことが示すように、その「近代的」な軍事力はアジアにとって大きな脅威だったし、鉄砲こそその腕力の中心をなすものだった。またかれらが、キリスト教徒として一種の選民意識をもち、どんなに乱暴な行動をも「異教徒」の改宗という名目で合理化できる論理をもっていたことも軽視できない。  鉄砲を携えたヨーロッパ人との出会いは、最初はたしかに小さなできごとだったかもしれないが、なおアジアにとって地球規模の世界史との接触であったことに変わりはない。その意味で長篠合戦から島原・天草一揆にかけての日本史の激動は、鉄砲伝来に始まる世界史の波が、列島にうち寄せたことの結果として理解することができる。しかしもちろん、鉄砲製作技術の急速な習得や鉄砲を用いる戦闘方法の発達が示すように、日本はその波に受身でもまれてばかりいたわけではないことも、忘れてはならない。 †ザビエルとアンジロー[#「ザビエルとアンジロー」はゴシック体]——最初のキリシタン[#「最初のキリシタン」はゴシック体]  鉄砲伝来をめぐる史料状況がずいぶんと入りくんでいたのにくらべて、キリスト教伝来の場合は、ザビエル自身が記録してくれているので、はるかにすっきりしている。それによるとキリスト教も、ヨーロッパと日本との直接の接触というよりは、アジアの交易ルートを媒介としてはじめて、日本に到来できたことがわかる。  この伝来劇のシテがザビエルだとすれば、ワキはアンジローという名の薩摩人であり、世界の十字路マラッカこそふたりの出会いの場だった。  フランシスコ=デ=シャビエル(以下慣用に従いザビエルとする)は、一五〇六年ピレネー山脈のスペイン側にあったナバーラ王国の貴族の家に生まれ、一五三四年イグナチオ=デ=ロヨラのイエズス会創立に参加した。イエズス会は、一五一七年に始まった宗教改革に対抗するアクティブなカトリック改革派で、東方伝道にはとくに力を注いでいた。ザビエルはローマ教皇代理として、ポルトガル国王ジョアン三世のあとおしのもと、一五四一年リスボンを出帆し、翌年ゴアに到着した。その後数年、インド西岸・セイロン島・マラッカ・マルク諸島などで布教に務めたが、努力のわりに成果はかんばしくなかった。  アンジローは(弥次郎《ヤジロー》とする史料もある)鹿児島で人を殺して追われる身となり、二人の従者とともに、たまたま来航していたポルトガル商人ジョルジ=アルバレスの船に逃げこんだ。犯した罪の重さに苦しむアンジローは、アルバレスからザビエルに会うよう勧められ、マラッカに着くとザビエルを訪ねた。一五四七年一二月七日のことである。ザビエルは翌年一月二〇日にインドのコチンからローマのイエズス会友にあてた手紙にこう書いている。 [#ここから2字下げ] 私がまだマラッカにいるとき、ポルトガルの信頼すべき商人たちが、私に重大な情報をもたらした。それは大きな島々のことで、東方に発見されてからまだ日も浅く、名を日本諸島と呼ぶのだという。商人たちの意見によると、この島国は、インドのいかなる国々よりも、はるかに熱心にキリスト教を受け入れる見込みがあるという。なぜかといえば、日本人は学ぶことの非常に好きな国民であって、これはインドの不信者に見ることのできないものだという。 この商人たちにつきそわれて、アンヘロと呼ぶひとりの日本人が来ていた。……このアンヘロは私に告白をしたがった。彼は青年時代に犯したある罪のことをポルトガル人に打ち明け、重大なその罪に対して、われらの主なる神から赦しの与えられる方法を求めたのである。そこでポルトガル人は、一緒にマラッカへ往って私に会ったらよかろうと勧めた。……彼はかなりポルトガル語を話すので、私たちはたがいに了解することができた。もし日本人がみな彼のように学ぶことの好きな国民だとすれば、日本人は、新しく発見された諸国のなかでもっとも高級な国民であると、私は考える。アンヘロは、私の聖教講義に来てのち、信仰箇条のすべてを自分の国語をもって書き留めた。彼はたびたび教会へ来て祈り、私に無数の質問を浴びせた。彼はなんでも知りつくさずにはおかないという強い欲望を持っている。これは進歩が早くて短時日で真理の認識に到達することのできる人物という、たしかなしるしである。 [#ここで字下げ終わり]  翌一五四八年三月、アンジローらはザビエルの勧めでゴアにいたり、聖信学院で教理を学んだあと、五月に洗礼を受けて、アンジローは聖信のパウロ、二人の従者はジョアンおよびアントーニオの名を与えられた。アンジローらの資質にほれこみ、日本に大きな希望を抱いたザビエルは、アンジローを道案内として、コスメ=デ=トルレス、ジョアン=フェルナンデスらとともに、一五四九年四月一五日にゴアを出発、コチンを経由してマラッカにいたった。  六月にマラッカからゴアに宛てたザビエルの手紙によると、マラッカ要塞の長官は、ザビエルのために堅固な武装船を用意しようとしたが、日本へ行く適当な船がみあたらなかったので、ラダラオ(海賊)の名で知られマラッカに家族のいる一中国人に、ザビエルらを日本へ送り届けるよう依頼した。ラダラオのジャンクは、コーチシナ、広東、福建沿岸の密貿易ルートを航行し、八月一五日(天文一八年七月二二日)鹿児島に到着した。  ラダラオは明らかにマラッカに居住する華僑で、江南の沿岸に出かけていって交易や海賊の活動をしていた人間である。鉄砲と同様キリスト教も、中国人密貿易商がつくりあげていたシナ海の交易ルートに乗って日本列島にたどりついたのであった。鹿児島到着後八〇日ほどたった一一月五日、ザビエルはゴアのイエズス会友に宛てた手紙で、マラッカからの航海のようすをこう書いている。 [#ここから2字下げ] 西紀一五四九年聖ヨハネの祝日(六月二日)の午後、私達は船に乗り込んだ。船は不信者のシナ商人のジャンクで、此のシナ人は、私達を日本へ渡すことを、マラッカの長官にまで申し出た者である。出帆の後、神は私達に、よい天気と順風とをお与えになった。然し、心の不安定なのは不信者のつねで、船長は進路を日本に取ることを止め、何の理由もないのに、あちこちの嶋に寄って、錨をおろした。(中略) 私達は、シナの方角に向って航行し、マラッカから百レグア離れた所で、一つの嶋に寄港した。ここで私達は、舵やマストの予備の外、シナ海の怖るべき暴風にあたって、予め必要だと考えられる建築材を積み込んだ。(中略) 漸く大洋へ出たかと思われる頃、又もやシナ人は籤を持ち出し、今度は船が恙なく、日本からマラッカへ帰り得るかどうかを、偶像に質問した。その答に依ると、船は日本へ到着するけれども、マラッカへは帰れないというのであった。此の託宣に、すっかり意気銷沈した彼等は、この上は、日本への航海を一年間延期し、シナで越冬することに決めた。こういう状態の連続が、私達の航海の有様である。私達は、悪魔の勢力と、その下僕等の掌中に渡されているのである。私達の渡航が、迷信の気随気儘にゆだねられている。何となれば、船をあやつる船長が、一にも二にも、悪魔の託宣によって事を決するからである。(中略) 私達は錨をあげて、シナの一つの港たるチンチェオ(※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州)に向った。順風であったから、数日にしてこの港に達した。船長等は、またもやここで越冬するつもりである。日本へ渡航するための都合のよい季節風が、既に不確実になっていたからである。ところが、私達が入港しようとした時、一つの帆船が走って来て、この港は悉く海賊に占められているから、ここへ上陸したら、それが最後だ、という驚くべき報告をもたらした。その時一レグアほどの距離の所に、チンチェオ人達の船が姿を現した。チンチェオから私達の方へ向って来るのである。これを見た船長は、これは危ないと思って、チンチェオに寄港しないことを決心した。広東へ帰ろうと思うと逆風である。日本へ向うためには順風である。それで船長も乗組員も、その願望に反して、航路を日本へ取る外は無くなった。こうして神は、私達があんなに憧れていたこの国に、導いて下さったのである。 [#ここで字下げ終わり]  ザビエルは船足が進まないのにいらだち、「不信者」ラダラオ船長が籤や託宣を信じて必要のない寄港をくりかえすからだ、と罵っている。「私達は、悪魔の勢力と、その下僕等の掌中に渡されている」という表現など、いかにも戦闘的なイエズス会士らしい。船長の信じる「悪魔」とは、たぶん道教の神であろう。  しかし手紙をよく読むと、船長の行動はザビエルの思うほど「迷信」に支配されてばかりはいないことがわかる。かれの航海は、なにもザビエルを日本に送りとどけることだけを目的としていたわけではない。それだけでは採算がとれなかっただろう。かれが「あちこちの嶋に寄って、錨をおろした」のは、ザビエルの眼には「何の理由もない」と映ったが、南海産物を中国に運びこむ密貿易行為であったにちがいない。  ある港で予備の舵やマスト、修理用の資材を積みこんだことからは、交易ルートが整備されて、補給地が設定されていたことがうかがわれる。そして※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州でのできごとからは、密貿易集団の間で争いが起きていたことがわかり、船長の行動は敵対集団の襲撃を避けようとする当然の判断にもとづくものであった。  ザビエルは約一年間鹿児島に滞在したあと、平戸・博多・山口・堺を経て、一五五一年一月、念願の京都に着いた。しかし当時の京都は戦乱で荒廃し、天皇にも将軍にも実権なく、かれは一一日間いただけで山口へ戻った。四月には大内義隆に謁見して布教を許可され、五〇〇人以上の信者を獲得した。九月には山口をトルレスに委ねて豊後府中におもむき、大友義鎮の歓迎を受けた。  ザビエルは一一月二〇日、ポルトガル国王あての義鎮書簡を携えて府中を出帆、翌一五五二年二月にゴアに帰着した。ついで中国布教を企て、八月に広東の上川島に着いたが、ほどなく熱病を発し、一二月三日、四七歳で没した。  十五五〇年九月に鹿児島でザビエルと別れてからのアンジローの消息はさだかでないが、十数年後に海賊船に乗って中国へ渡り、寧波の近くで海賊に殺されたといわれる。事実とすれば、かれもまた〈倭寇世界〉のなかで死んだのである。 †ザビエルの見た日本[#「ザビエルの見た日本」はゴシック体]  一五四九年一一月九日鹿児島発ゴアあて、五二年一月二九日コチン発ヨーロッパあての二通のザビエル書簡によって、かれの目に映った日本を眺めてみよう。  第一の手紙は、日本到着後最初のもので、ザビエル書簡中もっとも長く、宗門で「マグナ・カルタ(大文章)」と呼ばれ、信仰生活の導きの書として尊重されている。 〔資質と身分意識[#「資質と身分意識」はゴシック体]〕 私には、日本人より優れた不信者国民はないと思われる。日本人は、総じて良い素質をもち、悪意がなく、交わってすこぶる感じがよい。かれらの名誉心は特別に強烈で、かれらにとっては名誉がすべてである。日本人はたいてい貧乏である。しかし、武士であれ平民であれ、貧乏を恥辱だと思っている者はひとりもいない。……武士がいかに貧困であろうと、平民がいかに富裕であろうと、その貧乏な武士が、富裕な平民から、富豪とおなじように尊敬されている。また貧困の武士は、いかなることがあろうと、またどんな財宝が眼前に積まれようと、平民とけっして結婚しない。 〔学習能力とモラル[#「学習能力とモラル」はゴシック体]〕 住民の大部分は読み書きができる。これは、祈りや神のことを短時間に学ぶ際に、すこぶる有利な点である。日本人は妻をひとりしかもっていない。窃盗はきわめて稀である。死刑をもって処罰されるからである。かれらは盗みの悪を非常に憎んでいる。たいへん心の善い国民で、交わりかつ学ぶことを好む。神のことを聞くとき、とくにそれがわかるごとに大いに喜ぶ。 〔対外意識[#「対外意識」はゴシック体]〕 私たちはここ聖信のパウロ(アンジロー)の国で——かれは私たちにとってほんとうに良い友である——、町奉行をはじめ、ヨーダイ(不明)や多くの民衆からも非常に歓迎されている。人々がことごとく物めずらしそうにポルトガルから来た司祭を知ろうとする。パウロがキリスト者になったことについては、だれも変に思う者がないばかりか、むしろ尊敬をすら払っている。かれの一家の者も知人たちも、かれが日本人のまったく知らないインドへ往ってさまざまのことを見聞してきたのを、大いに喜びあっている。 〔学校[#「学校」はゴシック体]〕 都については驚くべきことが耳に入っている。戸数が九万以上だという。一つの大きな大学があって、その中に五つの学院が付属しているという(五山のことか)。……都の大学のほかになお有名な学校が五つあって、うち四つは都からほど近いところにあるという。それらは高野《こうや》・根来寺《ねごろじ》・比叡山・近江(木部の一向宗近城寺)である。どの学校も、およそ三五〇〇人以上の学生を擁しているという。しかし日本でもっとも有名でもっとも大きいのは、坂東(足利学校)であって、都を去ることもっとも遠く、学生の数もはるかに多いという。坂東は非常に大きな領地であって、そこに六人の公爵がいるが、その中の一人がもっとも有力で、ほかの五人はかれに従属し、またこの有力な公爵は日本国王に従属している。 〔中国との関係[#「中国との関係」はゴシック体]〕 日本の国王はシナの国王の友人であって、友情のしるしとしてシナ国王の印璽をもっている。したがって、シナへ渡る者たちに安全保証を与えることができる。日本からは多数の船がシナへ渡っていく。渡航には一〇日または一二日を要するにすぎない。  第二の手紙は、日本布教を切りあげてインドに戻ったザビエルが、日本での活動を総括し、シナ渡航の希望を述べたものである。 〔戦国期の社会[#「戦国期の社会」はゴシック体]〕 私はこれほどまでに武器を尊重する国民に出会ったことがない。日本人は実に弓術に優れている。国には馬がいるけれども、かれらはたいてい徒歩で戦う。……すこぶる戦闘的で闘争ばかりやっている。一番大きな闘争力をもっている者が、もっとも強い支配者になる。かれらは一人の国王をもっているが、もう一五〇年以上もその国王に臣従していない。 〔仏寺と教義[#「仏寺と教義」はゴシック体]〕 日本のある大名の領内には、坊さんと尼さんの寺が八〇〇あって、その一つ一つに三〇人を下らぬ坊さんがいるという。そしてまた、この八〇〇の寺のほかに、なお四人、六人、八人くらいずつの他の家がある由である。……かれらが信じている各宗派の教義は、日本の近くにあるシナという大陸から来たものである。坊さんらは、大いなる苦行をした人々の書いた書物を所持している。この人々は千年、二千年、三千年にわたる苦行を行なったという。その名を釈迦および阿弥陀という。そのほかになお宗祖や苦行者の名が多数知られているけれども、釈迦と阿弥陀がもっとも有名である。 〔仏教信仰[#「仏教信仰」はゴシック体]〕 たがいに異なる教義をもつ宗派が九つある。男も女も自分らのもっとも要求する宗派を、その好みに応じて選んでいる。他の宗旨に走ったからといって、これに圧迫を加えるような日本人はひとりもいない。従って一家族のうち、主人はこの宗旨に属し、主婦はあの宗旨を奉じ、子供がそれぞれにまた他の宗派に帰依しているような家庭がある。日本人にとって、これはきわめて当然のことで、各人は自分の好む宗派を選ぶことがまったく自由だからである。 〔教義書の翻訳[#「教義書の翻訳」はゴシック体]〕 私たちは、パウロの故郷にいる間、信者に信仰教義を教えると同時に、言葉を習い教義の多数の項目を日本語に翻訳することを任務としていた。翻訳は何よりも世界創造の教義から始めねばならぬ。ただしそれを簡潔にして、日本人にとってもっとも重要な事柄だけを説明すべきである。たとえば、ただひとりの創造主が万物をお造りになった、というごときは、日本人のまったく知らない観念である。それから救霊の他の教義に移っていく。キリストの御託身から始めて、御生涯のあらゆる玄義を述べ、御昇天の話をもって終る。そのあと公審判の説明を付加する。この本を日本語に訳すのは並大抵の骨折りではなかった。ただし字は横文字を使って書いた。 〔知識欲[#「知識欲」はゴシック体]〕 神の御憐れみの大いなることを示すためには、日本人は、私の見た他のいかなる異教国の国民よりも、理性の声に従順の民族だ。非常に克己心が強く、談論に長じ、質問は際限がないくらいに知識欲に富んでいて、私たちの答えに満足すると、それをまた他の人々に熱心に伝えてやまない。地球の丸いことはかれらに知られていなかった。流星のこと、稲妻・雨・雪などについても質問が出た。  こののち一世紀のあいだ、多くのキリスト教宣教師が日本を訪れ、書簡・年報・著作などのかたちで、厖大な日本観察記録を残した。それらは、戦国時代から江戸時代にかけての大変動を、日本人とは異なる眼からとらえた貴重な史料となっている。そのさきがけをなすザビエルの書簡群は、ゆたかな知性と鉄の意志に支えられて、日本とヨーロッパの出会いを、とりわけ興味ぶかく描き出している。 †西に開く窓、平戸[#「西に開く窓、平戸」はゴシック体]  一五四八年に明の官憲によって双嶼を追われた王直は、日本の五島に根拠地を移し、ついで平戸にも屋敷を構えて密貿易を続けた。平戸の領主|松浦隆信《まつらたかのぶ》が、王直のような国家的反逆者の居住を許したのは、貿易の利を第一とする考えからだった。その後まもない一五五〇年六月(または七月)、ポルトガル船がはじめて平戸に入港したが、おそらく王直の誘いによるものだろう。  ザビエルは上洛途上の同年九月、平戸に立ちより、隆信の歓迎を受け、一〇〇人ほどの信者を獲得した。ポルトガル商人たちがザビエルに深い敬愛を捧げるのを見て、隆信は貿易振興のためにもキリスト教の保護が得策と考えたのである。  その結果、平戸は海外の珍物で満ちあふれ、その富は平戸松浦氏が小さいながら戦国大名として成長する支えをなした。当時の繁栄ぶりを『大曲記』はこう描いている。 [#2字下げ]平戸津へ大唐より五峯(王直)と申す人|罷着《まかりつき》て、いまの印山寺屋敷に唐様に屋形を立て、罷住《まかりすみ》申しければ、それをとりへにして大唐の売《あき》ない船たへせず。あまつさへ南蛮(ポルトガル)のくろ船とて、初めて平戸津へ罷着ければ、唐なんばんの珍物は年々満々と参候間、京・堺の商人、諸国皆あつまり候間、西のみやことぞ人は申しける。  はじめ松浦隆信はキリスト教に好意的で、ある神父《パードレ》に「自分はポルトガル人の良き友で、パードレを歓迎し、修院《カーザ》建設用地を与え、インド副王に書状を送る」と語ったほどだった。このころ平戸は「日本にある最良の港」と称えられ、日本に来るポルトガル船のほとんどが平戸をめざした。  こうして南蛮貿易の隆盛とキリスト教の普及が、平戸の地で手を携えて進行した。一五五五年には信徒が五〇〇人を数え、五七年には最初の教会が建てられ、六一年には九〇人のポルトガル人がいたという。同年一〇月一日豊後発、修道士《イルマン》ルイス=デ=アルメイダの手紙は、平戸に近い肥前|度島《たくしま》に教会が建設されるようすをこう伝えている。 [#2字下げ]当島の住人は大きな悦びをもって工事に従事し、わずかな日数の間に、多数の人々の助力を得て、教会は完成した。これがために平戸から聖像額・帷帳その他の装飾物が、ポルトガル人の手で届けられた。かれらポルトガル人は五艘の船で(平戸に)来航していたので、これらの教会用品も充分補給することができたのである。  隆信のまたいとこ[#「またいとこ」に傍点]にあたる籠手田安経《こてだやすつね》は隆信につぐ有力者で、一五五一年に入信し、その知行地にはキリスト教が深く浸透したが、とくに度島では全住民がキリシタンになるほどだった。  キリスト教の急速な普及は、必然的に信徒やポルトガル人と僧侶・仏教徒とのあつれき[#「あつれき」に傍点]を生んだ。さすがの隆信も警戒心を強め、一五五八年には平戸地方の布教責任者ガスパール=ビレラの追放に踏みきった。一五五七年に王直が明の官憲の誘いに乗って投降し、平戸から姿を消しており、中国貿易に陰がさしてきたこともあって、隆信の南蛮貿易に対する期待はなお大きかったが、貿易を続ける以上キリスト教の浸透はさけられない。  一五六一年、ついに大きな事件が起きた。ポルトガル船の積んできた絹布の取引価格をめぐって、数人のポルトガル人と一日本人との間で争いとなり、船長《カピタン》フェルナン=デ=ソーザがポルトガル人側を援けたので、隆信の家臣らが数を頼んでポルトガル人たちに打ちかかり、ついにソーザ船長以下一四人のポルトガル人を殺してしまったのである。  隆信はなお貿易断絶をおそれて宣教師と和解し、二年前に破却されていた平戸教会の再建を許可したが、一五六二年平戸に来た日本布教長コスメ=デ=トルレスは、この年来航したポルトガル船の平戸入港を阻み、大村純忠領内の肥前横瀬浦に回航させた。こうして南蛮貿易の利益は大村氏の手に移り、六三年純忠は入信して最初のキリシタン大名となった。  ところがこの年、大村家の内紛で横瀬浦が焼失したので、六四年来航のポルトガル船は平戸に入った。隆信は貿易確保のためキリスト教歓迎の姿勢を示し、六五年平戸には当時の日本でもっとも大きく美しい教会が建てられた。この教会は「御孕みのサンタ・マリア」と名づけられ、日本名を「天門寺」と称した。  ところがトルレスは一五六五年に来航したポルトガル船に平戸入港をやめるよう説得し、大村領に福田浦を確保してここに入港させた。あせった隆信は福田浦襲撃という荒っぽい手に訴えた。神父《パードレ》ルイス=フロイスの『日本史』(第六三章)はこう書いている。 [#2字下げ]平戸の殿(隆信)は、……シナの船がもう前のように彼の港(平戸)に碇泊しないようになったのを見て、とりわけ、(ポルトガル)船《ナウ》が近寄らなくなった結果、彼がもちまえの異常な貪欲さから最も欲望していた船《ナウ》からの大きな利益を得られなくなったのを見て、当時ドン=バルトロメウ(純忠)の領内の福田港にいたドン=ジョアン〔=ペレイラ〕の船《ナウ》を征服することに最後の力を賭けて全力をつくそうと思い定めた。……その計画を実現するためには、彼は当時彼の港(平戸)にいた堺の商人たちの大型船八艘ないし十艘と同盟して、その(ポルトガル)船《ナウ》から絹を買うことをもくろみ、その獲物を分けようという申し合せをした。……到着すると、八艘の大きな船は、日本人生来の恐れる気配もなく勇敢に、この船《ナウ》をぐるりと取り囲んだ。そうして、直ちに最初の攻撃で彼らが発砲すると——それは堺で造られた一種の簡単な火縄銃であった——、彼らはさっそく船の砲術長を殺し、……同時に船に填隙する者と他のポルトガル人二人を殺した。  この作戦は松浦側の敗北に終わり、以後、松浦領内へのポルトガル船入港は、一五八六年の一度を除いて絶えてしまった。ポルトガル船は一五七一年からは大村領の長崎に入港するようになり、国際貿易港湾都市としての長崎の歴史がここに始まった。  一五八四年にはイスパニア船が平戸に来航し、松浦|鎮信《しげのぶ》(隆信の子)を喜ばせた。鎮信はイスパニア船の帰航にさいし、イスパニア人を歓迎する意を述べたフィリピン総督あての手紙を託したが、イスパニアはポルトガルとの世界分割《デマルカシオン》にもとづいて日本貿易に消極的だったため、それ以上の進展はみられなかった。  平戸のもつ地政学的重要性は、イベリア両国の貿易船が去ってのちも、この地を衰退に任せてはおかなかった。秀吉の九州平定とバテレン追放、朝鮮侵略戦争、家康の覇権と続く大変動を乗りきった平戸藩主松浦鎮信は、一六〇九年オランダ船を平戸に迎え、幕府の承認のもと商館の設立を許した。オランダ東インド会社の平戸商館は、極東におけるオランダの貿易活動や、イベリア両国・イギリスに対抗する軍事活動の重要拠点となった。この間イギリス東インド会社も、一六一三年平戸に商館を設置したが、オランダとの競争に敗れ、二三年撤退した。  オランダ商館は、一六二八〜三二年の中断をはさんで都合二八年間存続したが、いわゆる鎖国体制構築の一環として、一六四一年に長崎の出島に移転した。 [#改ページ]   【第5章[#「第5章」はゴシック体]】 日本銀と倭人ネットワーク [#改ページ] †石見銀山を訪ねて[#「石見銀山を訪ねて」はゴシック体]  東西に長い島根県のほぼ中央にある大田《おおだ》市の山間部に、一六世紀に開かれた巨大な鉱山の跡が眠っている。国指定史跡「石見銀山遺跡」である。一七世紀前半の最盛期には、年間の銀産高が八〇〇〇貫から一万貫(三万二〇〇〇〜四万キログラム)にのぼった。このころ日本全体の銀産高は四〜五万貫と推算され、これが全世界の銀産の三分の一を占めたといわれるから、石見銀山だけで全世界の銀の一五分の一を産出したことになる。  標高五三七メートルの仙ノ山を中心とする山腹のいたるところに、間歩《まぶ》と呼ばれる坑道が口を開け、その数は鉱山衰退期の一八二三年の調査でも二七九坑を数えた(休止坑をふくむ)。最盛期には銀山全体でなんと二〇万の人口があったと伝えられる。いくらなんでもこれは信じがたいが、それでも四万人前後は確実だという。  一九九二年から仙ノ山山頂の東北にある標高四七〇メートル前後の平坦地|石銀《いしがね》地区の発掘が始まり、一六世紀、ここに選鉱・製錬の作業場を中心とする大きな集落があったことがわかってきた。宅地のほか、石垣・井戸・池・寺跡・墓地なども確認されている。従来、銀山七谷と呼ばれる谷筋に雛段状の集落址があることは知られていたが、山上にも大規模な集落の立地があったことを考えあわせれば、過大に思えた最盛期の人口にもかなり真実味が出てきたといえよう。  石銀地区に先行して行なわれた他地区の発掘調査でも、銀山川沿いの下河原で一七世紀の巨大な吹屋《ふきや》(製錬所)跡が出土したほか、銀山川から山吹城への登り口の下屋敷地区に、鉱山管理事務所というべき休《やすみ》役所があったことが確認された。石銀地区をふくむこれらの発掘地点からは、一六世紀後半以降の中国陶磁や、一六世紀末から一七世紀初頭の唐津焼および唐津系陶器が多く出土しており、鉱山町の消費生活をしのばせると同時に、日本海航路を通じての九州や大陸方面とのつながりを語ってくれる。  銀山川をはさんで仙ノ山の北西に隣りあう要害山(標高四一二メートル)の頂上には、戦国期の山城「山吹城」の跡がある。銀山の掌握をめぐって、三〇年以上もの間、大内、小笠原、尼子、毛利の軍勢が鎬をけずった要衝で、最高部の主郭を中心に一〇の郭が階段状に展開し、樹木の茂った現在も人工の跡が歴然としている。また、銀山から西へ、降路坂《ごうろざか》を越えて宿場町西田(温泉津《ゆのつ》町)にいたる道の押えとして、峠の南にそびえる標高六三八メートルの山上に、「矢滝城」も築かれた。  鉱山領域の下手に接する大森地区は、鉱山管理者の住宅、町屋・店棚、寺院・神社などが川に沿って細長く展開、江戸時代の町並みの雰囲気をよく残しており、「大森銀山地区重要伝統的建造物保存地区」に指定されている。ここには、大森町のもっとも下手にあって、現在石見銀山資料館になっている大森代官所跡をはじめ、大森町年寄遺宅熊谷家、郷宿田儀屋遺宅青山家、代官所同心遺宅柳原家、地役人遺宅の岡家・三宅家・阿部家・河島家などの歴史的建造物が建ちならぶ。商家と武家が混在するのがこの町の特徴とされる。  これらの大規模で多彩な遺跡群は、過疎に悩む地域の振興の目玉として期待が寄せられており、発掘調査や町並み復元の成果をふまえた観光開発が進行中だ。過疎化のおかげもあってこの地域には大規模開発の波がまだ寄せておらず、遺跡の保存状態は良好である。現在「世界遺産」への登録を目指して運動が進められている。遺跡の史的価値を損なうことなく、しかも多くの観光客が呼べるような、バランスのとれた開発が望まれる。 『銀山旧記』によれば、石見銀山の発祥は一三〇九年の大内弘幸による発見にさかのぼるというが、確実なところでは一五二六年、神谷寿禎《かみやじゆてい》が海上から南方に光輝く山を見て銀鉱脈の存在をさとり、山師三島清右衛門と共同で採掘を始めた。この山が仙ノ山、別名|銀峯山《ぎんぷせん》である。寿禎は有名な博多の豪商神谷|宗湛《そうたん》の祖父にあたる人であり、三島清右衛門は出雲西部の港町|口田儀《くちたぎ》(多伎町)の出身で島根半島北岸にある鷺浦《さぎうら》(大社町)銅山を経営していた。銀山の発見が博多から西へ延びる日本海沿岸航路を背景に行なわれたことが明瞭である。  このころの鉱石積み出し港は、銀山から北西に一二キロメートルの友ノ浦(仁摩町)だったという。切り立った崖にはさまれた細長い入江の入口に鵜の島があって、天然の防波堤となっているが、この島には寿禎が祀ったといわれる厳島神社がいまもある。入江の南側には鋸歯状の切れこみがあり、天然の船入りとなっている。入江の奥は狭い谷に細長く集落が展開し、やがて道は台地上に登っていく。きわめて小さい港だが、ひとつの小天地をなしており、中世の雰囲気が色こく漂う。  一五三三年には、寿禎が博多から宗丹・桂寿という技術者を連れてきて、朝鮮伝来の灰吹法《はいぶきほう》と呼ばれる銀精錬法を導入、それ以後爆発的な増産をみた。一五六〇年代になると、積み出し港も友ノ浦では手ぜまになり、銀山の西方一五キロメートルにある天然の良港温泉津(温泉津町)が利用された。銀山と温泉津を結ぶ降路坂越えの道は、一七世紀前半に中国山地を横断して尾道にいたるルートが整備されるまでは、灰吹銀の積み出しや銀山町の生活物資の搬入でにぎわった。現在「歴史の道」として整備され、そのルートを四〜五時間で歩くことができる。  七世紀以来という歴史を誇るひなびた温泉町温泉津は、温泉津港のある深い湾入から東に延びる谷間に沿って、狭い道の両側に旅館や商家や寺社が石州瓦の甍をならべている。温泉津は明末の日本研究書『籌海図編《ちゆうかいずへん》』や『図書編』にも名が記される重要な港湾で、軍事的要衝としても重視された。毛利氏はここに温泉津奉行をおき、湾の入口に鵜丸《うのまる》城・櫛島《くしじま》城というふたつの海城を築いている。銀山が盛期を過ぎてからも、温泉津は北前船や上方船の寄港地として繁栄を続けた。一七九八年にこの地を訪れた吉田桃樹は、旅行記『槃游余録《ばんゆうよろく》』に「大船つどう港にて、家居多くにぎはゝし」と記している。 †日本銀、朝鮮をゆるがす[#「日本銀、朝鮮をゆるがす」はゴシック体]  一四九八年にバスコ=ダ=ガマがインドに到達して以来、東南アジア・東アジアに展開したポルトガルは、一五五七年に明朝からマカオ居住を許され、マラッカ・マカオ・長崎間に定期航路を開いた。これは日本銀が中国へ流れこむルートとなる。  いっぽう、一四九二年にコロンブスが新大陸を「発見」して以来、スペインは西インド諸島から中央アメリカ・南アメリカにかけて植民帝国インディアスを築きあげた。一五一九年にはマゼランの艦隊が世界周航に出発、南アメリカ大陸の南端をまわって太平洋を横断し、二一年にフィリピンに到達する。スペインのアジアでの拠点づくりは、ポルトガルとの対立により難航したが、ようやく一五七一年ルソン島にマニラを建設し、メキシコのアカプルコとの間に定期航路を開いた。これは「西インド」の銀(ボリビアのポトシ銀山を中心とする)が中国へ流れこむルートとなる。  一五二六年に石見で鉱石の採掘が始まり、三三年に灰吹法の導入により増産をみた日本銀は、当初は国内の需要はわずかであり、大半が輸入の決済に宛てられたり、あるいは輸出商品として、海外に流出していった。その状況をもっともくわしく知りうるのは朝鮮の史料である。  一六世紀のはじめまでは、日朝間の貿易において銀はむしろ日本側の輸入物資だった。このころ朝鮮では、咸鏡道の端川《タンチヨン》を中心に銀山がさかえ、政府は採掘を民間にゆだね、銀を税として納めさせていた。この銀は通事らによってひそかに中国にもちこまれ、あるいは日本との貿易の決済に宛てられた。たとえば一五〇一年、対馬島主の使者が銅一万三五〇〇余斤の買い取りを請い、また翌年には銀一〇〇〇両を求めている。  右の例が示すように、この時期、朝鮮を訪れる倭人が携えた商品の中心は銅だった。大永のころ(一五二一〜二八年)、例の神谷寿禎が出雲の鷺浦銅山に年々往来して銅を買い付け、貿易品に宛てていたと伝えられる。日本海航路を通じた寿禎と鷺浦銅山主三島清右衛門とのつながりは、前述のように石見銀山発見のきっかけとなったが、その背景には日朝間の銅貿易の伸張があったのである。  一五二八年、ある軍人が朝鮮の首都ソウルの行政単位である中部に、「朴継孫・王豆・応知・安世良・張世昌らが、倭の鉛鉄をもって、黄允光の家で銀を造っている」と訴え出た。これが倭と銀との関係を示す最初の史料である。  端川など朝鮮の銀山では、銀を含む鉛鉱(含銀鉛鉱)が採掘され、これから灰吹法によって銀を分離する技術が発達していた。一五〇六年の記録に「端川において、鉛六九〇〇斤を精錬して銀を採ったのち、鉛を含む鉱滓で青瓦を焼造した」とある。この場合の「鉛」は明らかに含銀鉛だから、朴継孫らが倭人から入手した「鉛鉄」も含銀鉛だと思われる。 『銀山旧記』は、石見銀山の開山当初は鉱石そのものを精錬のため博多に送っていたと記している。右の「倭の鉛鉄」は、銀山より博多に送られた含銀鉛鉱がそのまま朝鮮へもちこまれたものか、あるいは博多で銀鉱石を�鉛に吹いて�含銀鉛にしたものかの、いずれかだろう。  このように寿禎らが石見銀山を発見した二年後、はやくも日本銀が朝鮮に流入していた。灰吹法が銀山に定着した一五三三年をへて、一五三八年ころになると、倭人が朝鮮にもちこむ品のほとんどが銀になっている。この年到来した倭人は、北九州の豪族少弐氏の使者をなのる者だったが、かれらについて、議政府・戸曹・礼曹が協議して国王に呈した意見書はこう述べている。 [#2字下げ]この間|小二《しように》殿の使者がもたらした銀は三七五斤、綿布にして四八〇余同になります。いま公貿易でこれをぜんぶ買い取りますと、日本国王や大内殿もその利に目をつけ、銀を商物として公貿易を求めてくるでしょう。そうなっては国用の布がすぐ底をついてしまいます。そこで礼曹に「銀はわが国にとって緊要の物ではないので、公貿易の対象にはならないが、今回は特別に三分の一だけ買うこととしよう。今後は銅・錫・鉛のほかは持ちこんではならない」といわせてはどうでしょうか。  倭人たちが銀の見返りとして朝鮮に求めた物は圧倒的に綿布だった。当時朝鮮では木綿以下の布が貨幣として機能しており、倭人の要求にそのまま応じていては、国家として使用すべき木綿が不足してしまう。それでもなお朝鮮政府は、倭銀を国家財政によって買い取る「公貿易」にこだわり、大商人による私貿易を許さなかった。かれらによって倭銀が明にもちこまれるのを恐れたからである。  国家による政策的抑圧は、倭銀を買い取ろうとする大商人だけでなく、国内の銀生産自体にも向けられ、せっかく増産をみていた端川以下の銀山にもしばしば採掘中止が命じられている。一五四二年、廷臣らはこう述べている——「銀はわが国内のいたるところで産するが、民衆の衣食に関わりない物であるうえ、ひとたび利源を開くと、ともすれば争って利に走り、その本を忘れてしまうことが心配だ。だから官ではすでに採掘していないし民間にも採掘を禁じてより久しい[#「官ではすでに採掘していないし民間にも採掘を禁じてより久しい」に傍点]」と。  ここでは禁銀の理由を、民が利に走るようになるから、としているが、倭人に対する表むきの説明であり、真の動機は別のところにあった。一五四〇年、司諫院・司憲府の諫官が国王に呈した意見書を見よう。 [#2字下げ]以前、明から銀を貢納せよという要求がきびしかったので、「朝鮮には銀は産しない」と奏請して免除してもらいました。……ところが最近は奢侈が日ごとに甚しく、商人が利を得る機会が多くなり、婚礼などに際しては、異土の物でなければ礼を失するという風潮がはびこっています。卿や士大夫は争って奢華に走り、厮隷や下賤でさえ唐物を用いています。そればかりか、倭銀が流布して市場に充満するようになり、これを北京に赴く人が公然と駄載し、一人のもたらす量が三千両を下りません。……当初明が銀貢を減額したのは、わが国を礼義の国と信頼してくれたからです。いまもし「銀を産するのに貢しない」という誣告があって、明がわが国を不直の国とみなすようになったら、わが国にとって慚懼のきわみです。いわんや万が一貢銀の命が復活するようなことになったら、どうしてそれに対応したらよいでしょうか。  朝鮮政府の手を縛っていたものは、冊封関係にもとづく明からの貢銀の命が、復活しはしないかという恐れだった。朝鮮では冊封関係の重圧が日本にくらべてはるかに強く、銀の産出や流通を抑圧していた。そうした制約がほとんどなく、銀産の飛躍的拡大をみた日本と対照的だ。 †「日本国王使」と八万両の銀[#「「日本国王使」と八万両の銀」はゴシック体]  一五四〇年代になると倭銀問題はあらたな段階にはいった。倭人のもちこむ銀があまりにも多量で、公貿易による対応の限界を超えてしまったのである。  一五四二年、「日本国王使」をなのる使僧安心が、八万両もの銀をもちこみ、買い取りを要求してきた。この安心が実は対馬の仕立てた使者であり、持参した「国王の書契」も偽作であることは、朝鮮側も認識していた。司憲府執義の任説はいう。 [#2字下げ]倭使の目的はもっぱら銀をもちこんで売りさばくことにあります。倭人は、銀精錬の術をわが国から学んだのですから、もちろん禁銀がわが国是であることを知っています。そのために銀が売れないことを恐れて、国王の書契があるからと称していますが、ほんとうの日本国使だとは信じられません。その証拠には、書契のなかで最初から銀のことに言及し、対馬のことを力説しているではありませんか。その言辞は疑わしいものです。海島の狡夷に国王の書契を偽造する動機があることを知っておくべきです。  八万両(約三二〇〇キログラム)の銀がいかに膨大な量かは、つぎに掲げる領議政尹殷輔らの意見書にあきらかだ。 [#2字下げ]銀八万両を他の品目の価段とあわせて換算すると、官木九千余同になります。慶尚道に備蓄の官木だけでその数を満たすことはできませんので、司贍寺《しせんじ》(地方の奴婢の貢布を掌る中央官衙)の官木を多量に補って買う必要がありますが、それも財政に余裕がなく不可能です。公貿易で買い取る数を限定し、その余は民間に私貿易させるのが妥当です。 「官木」とは国家備蓄の木綿布のことで、一同は五〇匹にあたるから、九千同は四五万匹ということになる。しかし尹殷輔の意見に従って私貿易を導入して全部買えたとしても、そこからまた別の問題が生まれる。司憲府はいう。 [#2字下げ]倭国で銀を造り始めてからまだ一〇年にもならないのに、倭銀がわが国に流布し、すでに賤物となっています。ちかごろ法を立てて倭銀流入を禁じたので、倭人は今度は国書をもってむりやり買い取らせようとしています。もしいまもちこまれた八万両の銀を朝鮮が買い、倭人に利を得させて帰したら、この後かならず倭使があいつぐようになるでしょう。  一五四二年のこの史料から推して、倭銀が朝鮮に本格的に流入しはじめたのは一五三三年ころ、すなわち石見銀山に灰吹法が定着したのとほぼ同時である。朝鮮王朝の法典『経国大典』には、もともと「潜《ひそ》かに禁物を売る者は、杖一百・徒三年、重き者は絞」という条項があったが、一五四〇年に倭銀の中国もちこみ(齎銀赴京)を死罪とし、倭銀の密買(潜貿倭銀)はそれより一等減とした。右で「ちかごろ法を立てて倭銀流入を禁じた」というのはこれを指している。  それでもなお、一五四二年ころには、あまりにも大量の流入のため、銀価が下落して「賤物」といわれるほどになっていた。この状況で倭人のいいなりに銀を買ったら、その利に味をしめて続々と倭使が銀を朝鮮にもちこんできて、収拾がつかなくなる心配があった。  司諫院も銀貿易に応ずるのに反対して、つぎのように論じた。 [#2字下げ]日本国使が通信を名目にもちこむ商物は、ついに銀八万両にいたりました。銀は宝物ではありますが、民の衣食とはならず、実に無用の物です。わが国はいま綿布を用いており、民はみなこれに頼って生活しています。民の頼る所をもって無用の物と交換し、利はかれに帰し、われはその弊を受ける、というのは甚だ不可であります。いわんや倭使が銀をもちこむことは、以前にはなかったことです。いまもし貿易を許せば、その利の大きさに目をつけて、後来の者がもちこむ量は、かならず今回の倍になるでしょう。いまひとたび端を開けば、その無窮の欲に応じることは困難になりましょう。はじめから退けておけば、かれらを失望させたとしても、その怒りはまだ浅いでしょう。かれらの要求に応じきれなくなってから銀貿易を中止するのでは、その怒りはますます深く、その害もまたかならず大きくなりましょう。かつ公貿易はすでに不可と決まりました。民間に私貿易を許すことは、禁銀の令に反しており、これまた不可であります。貿易を許さず、後弊を塞ぐようお願いいたします。  はじめはこのような一切貿易に応じない、という意見が大勢を占めたが、中宗はその採用をためらい、やがて朝議は尽貿・略貿・不貿に三分した。小田原評定のすえの結論は、銀の三分の二を市価に従って公貿易・私貿易に分けて買う、というところにおちついた。  以上のような倭銀の流入に対する朝鮮政府の対策としては、ことごとく公貿して民間人に倭銀を密買できなくし、もって銀が中原に流入する源を断つ、という積極策も唱えられたが、あくまで中心は、倭銀に手を出した者を重罪に処する方向にあった。 †遼東の日本銀[#「遼東の日本銀」はゴシック体]  朝鮮半島を経由して大陸へ流れこんだ日本銀は、経済先進地の中原ばかりでなく、遼東の辺境地帯にも吸い寄せられた。朝鮮との国境に近い遼東の鳳城を訪れたある朝鮮人は、当時のようすをこう伝えている(『通文館志』巻三・開市)。 [#ここから2字下げ] もともと遼東は、土地は広いが人居はまれで、鳳城もわびしい家屋に兵士が暮す寒村だった。ところが十余年まえより交易が次第にさかんになり、産業はさかえ人口もふえ、一巨鎮となって、前線の柵から鎮城までの間にも、耕地が拓かれ鶏や犬の声も聞かれるようになった。市の日には、金県・復県・海城県・蓋平県などの近郊から棉花を運んでくる者、瀋陽や山東の麻布を運ぶ者、中後所や遼東の帽子を運ぶ者が集まって、車馬|輻輳《ふくそう》のにぎわいをみせる。南方の商船は牛荘《ニウチヤン》の海口に入港し、北京の人は生糸を載せて柵門にいたる。城中で営業する店舗は京畿の大店のようで、町並みが軒を連ね、商人らの衣服・車騎の豪華さは、公侯とみまがうほどだ。 これにくらべてわが国の民は、開城・平壤から義州にいたるまで、商売をなりわいとする者はみな資本を損失して負債をかかえ、はなはだしきは子孫にいたるまで没落してしまう。交易というものは、損益がかれこれ等しくあるべきなのに、このていたらくだ。けだし思うに、わが民が市にもっていく物は、人参《にんじん》以下の禁物か、さもなければかならず銀だ。銀は国産品でないので、公私の蓄えにかぎりがある。かつ商人たちは利をむさぼるあまり、銀を備蓄することなく、市のたびに財布をはたいて銀を遼東に送り、一度送ってしまった銀は二度と戻ってはこない。 [#ここで字下げ終わり]  一六世紀のこの地域では、中国中央部のめざましい経済発展に刺激されて経済ブームが起きており、朝鮮半島をしのぐほどの活気をみせていた。そこで利益を手中にした実力者たちの代表が、李成梁、毛文龍、そして後金(清)の太祖ヌルハチである。かれの手元にも日本銀が蓄積されていたかもしれない。 †日本銀、東シナ海を渡る[#「日本銀、東シナ海を渡る」はゴシック体]  日本銀の中国流入は、朝鮮半島経由だけでなく、東シナ海を横断する直航ルートがあり、このほうが太かったと思われる。中国の銀吸引力は、倭人たちをして、朝鮮半島経由でなく直接に中国沿岸に銀をもちこむことの有利さを気づかせた。一五四一年の礼曹の啓にこうある。 [#2字下げ]この間、倭人に銀のもちこみをやめさせ、朝鮮人に倭銀を買うことを厳禁しました。ところがいま倭人らは、中国の南辺で銀が高く売れるので、わが国にある銀を買い戻すようになっています。わが国にある金銀・珠玉のような宝物は、中国だけでなく倭人・野人にも渡さないことが国典にうたってあります。倭人に銀を転売してはならないと国典に明記してはどうでしょうか。  一五四四年、承政院は、朝鮮半島南辺に漂着した福建省の唐人から得た供述を伝えて、こう述べている。 [#2字下げ]いま唐人を訊問しましたところ、その語は一ならず、奸詐をなすにいたりました。はじめに居処を問いますと、あるいは河間(河北省の内)といい、あるいは福建と申します。福建にどんなものがあるかと問いますと、「某山がある」と答えます。そこで『大明一統志』を調べますと、はたしてそれが実在します。また何事によって到来したのかと問いますと、「銀を買い付けるため日本に赴く途中、暴風のため漂流してここに着いた」と答えました。 [#挿絵(img/fig13.jpg)]  また一五五三年の記録にも、「日本国には銀を多く産する。故に上国(明)の人が日本に交通往来して買い付けるが、ともすれば漂風によってわが国(朝鮮)の海辺に来泊し、海賊をはたらく。もしわが国の人が、深追いして風濤の難所に入り、かれらを追いつめると、大きな変事が起きるかもしれない」とある。  これらの朝鮮史料は、倭人や中国人密貿易商が、東シナ海上のルートで列島から銀を搬出していたことを物語る。江南と日本列島を結ぶこの銀の道については、中国側の史料『籌海図編《ちゆうかいずへん》』巻四・福建事宜にも見えている。 [#2字下げ]※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州・潮州は海に面した土地である。広東・福建の人は、ここの民家に各地の産物を隠しておき、倭人が来たらそれを売る。倭人はただ銀のみをもってきて[#「倭人はただ銀のみをもってきて」に傍点]、それを中国の物資の対価とする。これは西洋人がいろんな貨物をもってきて、中国の物資と交換するのとはちがっている。ゆえに中国の人が倭寇の消息を知ろうと思うなら、人を南澳に遣わし、商人のなりをしてかれらと交易させれば、かれらが来るか来ないか、また何回くらい来るかを、およそ知ることができよう。そして一年以内には倭寇の事情がみなわかるようになるだろう。  右の銀の道にはヨーロッパ勢力も加わっていた。のちに紹介するメンデス=ピントの『東洋遍歴記』の記事によれば、平戸—※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州間を往来する中国船の積んでいた日本銀を、イスラム海賊が奪い、最後にはポルトガル人が手に入れていた。 †日本銀とヨーロッパ[#「日本銀とヨーロッパ」はゴシック体]  まもなく日本銀の名はヨーロッパに鳴りひびくようになる。イタリア人チェザーレ=フレデリチは、一五六〇年ころにこう書いている。 [#2字下げ]毎年インドからシナに行く船は、インド・カンパヤの薬品やマラバル・南洋諸島の香料を積んでいったので、香薬船(ナウ・ダス・ドロガス)と呼ばれていたが、のちには日本の銀を積むのがおもな目的となったため、銀船(ナウ・ダス・プラタス)と呼ばれるにいたった。  フランシスコ=ザビエルは、インドのゴアからポルトガルのシモン=ロドリゲス神父にあてた一五五二年四月八日付の手紙に、「カスチリヤ人は、此の島々(日本)を、プラタレアス群島(銀の島)と呼んでいる」、「ノヴァ・イスパニヤから此のプラタレアス諸島を探検する目的で、多数の艦隊が出帆しながら、途中で破滅の厄に遭うとの話を聞くと、私は哀れを催す……日本の島々の外に、銀のある島などは、発見されていない」と記した(『聖フランシスコ=サビエル書翰抄』下)。  一七世紀はじめ、イギリスやオランダの船によって、日本からソモ Somo あるいはソーマ Soma と呼ぶ上質の銀が多量に搬出された。これはおそらく佐摩《さま》の音写で(当時石見銀山は近くの地名によって佐摩銀山とも呼ばれていた)、石見銀山の灰吹銀だと考えられる。その他日本の銀の種別名としてセド(佐渡か)、ナギト(長門か)、タジモン(但馬か)などの名も見える。  ロンドンの商人ラルフ=フィッチの航海記は、一五八八年二月にマラッカに到着したことを記したあと、ポルトガル人の日本貿易に関してこう述べている。 [#2字下げ]ポルトガル人がマカオより日本にいたる際には、多量の白絹・金・麝香・陶磁器をもたらし、日本より銀以外に何ものも搬出しない[#「日本より銀以外に何ものも搬出しない」に傍点]。かれらは日本に毎年いたる大なるカラック船を有し、日本より毎年六〇万クルサード以上を輸出し、すべてのこの日本の銀とかれらが毎年インドから搬出する銀で二〇万クルサード以上のものとをシナで有利に運用し、シナより金・麝香・絹・陶磁器及びその他の高価な金で飾られた品を輸出するのである。  日本銀が直接ヨーロッパにまで搬出されたとは、中国という巨大な銀の吸引力が近くにある以上、考えにくい。しかし右のフィッチの記録も語るように、日本銀を原資として中国や東南アジアから諸種の産物が買いつけられ、ヨーロッパやその他の地域に輸出された。その意味で日本銀は世界を駆けた、といってもそれほど誇大ではないだろう。 †多民族混成の交易者集団[#「多民族混成の交易者集団」はゴシック体]  以上のような一六〜一七世紀の巨大な変動を、権力や国家の動きだけで説明するのでは、決定的に不充分だ。たとえば、ヨーロッパ勢力まで参加している密貿易集団が、なぜ「倭寇」と呼ばれたのだろうか。  この「倭」あるいは「倭人」とは、一五〜一六世紀の東アジアのなかでもっとも国家的統合の弱体だった日本の西部辺境を根拠地としながら、朝鮮人や中国人をもふくみつつ登場した、いわば国境をまたぐ人間集団だ。かれらは、一四世紀後半以来の明を中心とする冊封体制がゆるむにともなって、国家間あるいは公権力間の公的通交にとってかわって、この地域の人や物や技術の交流の主役になっていった。  ここでアジア海域における諸民族の星雲状態を語る例を二、三紹介しよう。まず一五三二年正月、黄海で嵐に遭い、朝鮮のある島に漂到した「唐人」たちに、体験を語ってもらおう。 [#2字下げ]私たち一〇人は、去る正月一五日、広鹿島で炭を載せ、老鶴觜の地にむかったところ、海中悪風に遭って漂流し、今月二七日夜半、名を知らない島にいたりました。陸まであと一歩というところで船が覆り、白江・張万・城名・劉文挙・李天材の五人が溺死しました。残る五人は波に浮いて陸にたどりつき、そこに五日間飢えながら留まりました。六日目に、私たち五人が寒をさけて窪地に隠れ伏しておりますと、木こりの声を聞きました。私たちは一緒に近づいて、姜福にここにいるわけを説明させようと思いました。木こりたちは、ある者は斧、ある者は|※[#「金+華」]《すき》、ある者は木弓・鉄箭をもっていましたが、「おまえたちは倭人か、※[#「けものへん+達」]子(女真人)か」と尋ねました。姜福は「倭人や※[#「けものへん+達」]子ではなく、江南・遼東の人間だ」と答えました。木こりたちは新旧の船各一隻で来ていましたが、新船の九人は私たちの求めにかたくなに応じませんでした。旧船の六人は許諾して、まず熱い湯をくれ、つぎに熟豆半升をくれました。その後四日間伐採し、三日間船に乗って風を待ち、七日目の二月四日の朝食時にいたって船を出し、その日の二更に名を知らない江辺に着きました。船主が「この南方八、九里ほどのところに瓦家と草家がある。おまえたちは上陸して、夜明けを待ってそこに行けば、命を保つことができよう」といいますので、夜明けをまって指示の所に行きますと、はたしてかれのいう通りでした。道で出会った五人の柴刈りから「さらに三、四里行くと大きな瓦家があって、そこで飲食が与えられるだろう」と聞いて、その家にいたりますと、家人が飯をくれ、留宿させてくれました。翌日、その家の主人が騎馬で入城しました。唐津《タンジン》浦万戸四人が私たちを連れていきました。  漂流者たちは最後に忠清道《チユンチヨンド》の唐津浦万戸によって護送されているから、漂到した島も忠清道のどこかだろう。この時期の黄海上では唐人・倭人・※[#「けものへん+達」]子が活動しており、朝鮮人には簡単には区別がつかなかったことがわかる。それと同時に、倭人や※[#「けものへん+達」]子が、朝鮮の一般庶民にとって耳なれた存在となっていることも見逃せない。  つぎにポルトガル人メンデス=ピントの『東洋遍歴記』は、一五四二年のこととしてこう記している(第六六章)。 [#2字下げ]私たちがノーダイ港を出発し、コモレン諸島と陸との間を航行すること五日目の土曜日の正午、プレマタ=グンデルという海賊が襲ってきた。グンデルは、パタニ・スンダ・シャムやその他の土地で、しばしばポルトガル人に大損害を与えていた不倶戴天の敵である。かれらはこちらをシナ人と思ったので、水夫のほかに二〇〇人の戦闘員を乗せた二隻の巨大なジャンク船を率いて私たちを攻撃し、そのうちの一隻がメン=タボルダのジャンク船を捉え、もう少しで攻め落とすところだった。……敵はきわめて果敢に戦ったので、アントニオ=デ=ファリアは部下の大半を負傷させられ、二度にわたって危うく負けそうになった。そのとき三隻のロルシャ船(シナの小さな商船)とペロ=ダ=シルヴァの乗った小ジャンク船が駆けつけ、われらの主の嘉《よみ》したもうたことには、この救援によって味方は失地を回復し、敵を追いつめ、八六人のイスラム教徒を殺して、まもなく戦闘は終った。……敵のジャンク船の積荷を調べたところ、戦利品は八万タエル(両)にのぼった。その大部分は、グンデルが平戸からシンシェウ[#「グンデルが平戸からシンシェウ」に傍点](※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州)に行く三隻のジャンク船から奪った日本銀だった[#「に行く三隻のジャンク船から奪った日本銀だった」に傍点]。したがって、この船だけで一二万クルザドを載せていたことになる。沈没したもう一隻のジャンク船にもほぼ同額の積荷があったと思われ、味方の多くはそれをたいへん残念がった。  南シナ海のどこかで起きたらしいこの海戦では、ポルトガル人、イスラム教徒、中国人密貿易商が入り乱れ、日本銀をめぐって争っている。注目すべきは、かれらの乗船がすべてジャンクなど中国式の船だったことで、ジャンクに乗ったイスラムの海賊は、やはりジャンクに乗ったポルトガル海賊を、中国人とまちがえて攻撃したのである。ヨーロッパ人やイスラム教徒も、中国大陸沿海の密貿易ネットワークに乗っかることで、はじめてアジア海域で活動することができた。「倭寇」と呼ばれる海上勢力の実態をよく示す例といえよう。  最後は一五四八年、浙江省沿海の密貿易基地双嶼が明軍によって陥落したとき、ポルトガル船に乗っていて捕えられた三人の黒人の供述である。かれらのうち、沙里馬喇という満|※[#「口+加」]喇《(ママ)》人は、操船と観象に巧みで、ポルトガル人に年俸銀八両で雇われて船に乗せられていた。法哩須という哈眉須人は、一〇歳のときポルトガル人に買われ、海上で成人した。嘛哩丁牛という※[#「口+加」]喇哩人は、ポルトガル人に幼いころ買われた。三人は異口同音に語った(朱※[#糸+丸」、unicode7D08]『甓余《へきよ》雑集』巻二)。 [#2字下げ]ポルトガル人一〇人と私たち一三人(三人?)は、※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州・寧波の七〇余人とともに、船に乗って海にでかけ、胡椒と銀を以て米・布・紬・緞子と交換する貿易を行ないつつ、日本・※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州・寧波の間を往来していました。たしかな日付は失念しましたが、双嶼にいたとき、名を知らない客人が小南船を操り、麪一石を載せてポルトガル船に乗りつけ、綿布・綿紬・湖糸があると称して銀三〇〇両を騙し取りました。また寧波の客人林老魁は、まずポルトガル人とともに銀二〇〇両で緞子・綿布・綿紬を買いましたが、のちポルトガル船に留まって、銀一八両を騙し取ろうとしました。また名を知らない寧波の客人は、湖糸一〇担を売ると偽って、ポルトガル人から銀七〇〇両を騙し取ろうとし、六担を売ると偽って、日本人から銀三〇〇両を騙し取ろうとしました。今双嶼にいて捕獲された六、七〇人のうち、※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州人は一人、南京人は一人、寧波人は三人です。※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州人一人は斬首され、一人は溺死し、そのほかは逃げ散りました。  密貿易者の巣窟である双嶼には、中国人が仏朗機蕃と呼んだポルトガル人、※[#「さんずい+章」、unicode6F33]州など福建人、寧波など浙江人、そして日本人が入り乱れ、南海産の胡椒や日本産の銀がもちこまれ、中国産の諸物資と交換される。取引のようすは貿易というより騙しあいであり、日本人も被害に遭っているが、銀が一般的等価物としてあらわれていることは注目される。 †銀流出をになう人的連鎖[#「銀流出をになう人的連鎖」はゴシック体]  ここで朝鮮半島にたちもどり、日本銀の流出をになった人的要素をくわしく観察しよう。まず、日本銀のあらわれる最初の史料としてさきに紹介した一五二八年の訴状を見よう。 [#2字下げ]金仲良・金有光・朱義孫・李守福・安孝孫らが、おのおの木綿五〇〇同を出しあって共謀のうえ、あるいは倭通事からひそかに禁物を買い取り、あるいは北京に赴く通事に黄金三九両・銀七四両九銭を託送しました。そのうえ、朴継孫・王豆・応知・安世良・張世昌らは、倭の鉛鉄をもって黄允光の家で銀を造ること、七、八日にいたりました。  倭人のもちこんだ含銀鉛鉱から、地方有力者の黄允光の私宅において、朴継孫らの鉱山技術者によって、銀が抽出される。その銀は、倭通事のなかだちによって、木綿を代価に金仲良らの商人に売られ、さらに北京へ赴く通事に付託されて中国へもちこまれる。ここから、〈倭人—倭通事—ソウル商人—赴京通事〉という密貿易の人的連鎖が読みとれる。この連鎖には、銀精錬の技術を提供した朴継孫らや、密造の場に自宅を提供した黄允光も組みこまれていた。  国家の下級役人が銀の密貿易にかかわった事例は、ほかにも多くみられる。一五三九年、内需司(宮廷の物品や奴婢を管理する官衙)書題という官を帯びる朴守栄という者が、ひそかに織物や生糸をもって倭人の入港地慶尚南道|薺浦《チエポ》に行き、宮廷の御用達と偽って銀を倭人から買い、中国に付送した。一五四三年、礼賓寺(賓客の接待を掌る官衙)の奴で東平館(ソウルの倭館)の庫直を勤めていた能石という者は、「市裏の人」と共謀して倭人と交通し、内外あい応じて銀を潜かに売買したとして、罪に問われた。また一五四四年には、「安心らの到来以後、倭銀が流布し、北京に赴く通事でこれを携帯しない者は一〇〇人のうち一、二人もいない」と指摘されている。  以上のように、朝鮮で国禁とされた倭銀にさまざまな社会層がかかわり、日本から中国への銀の道を担っていたが、このシンジケートのかなめは、ソウルの商人と考えられる。一五二八年の例で、倭通事から銀を受け取って赴京通事に託した金仲良ら五名はソウルの商人とみてまちがいあるまい。また一五三九年の朴守栄について、廷臣らは「どこの者かはわからないが、おそらく市井の人[#「市井の人」に傍点]であろう」といっているから、その実体はむしろ商人とみられる。一五四三年に能石と共謀した「市裏の人」も同様である。  以上のような商人の活発な動きは、中央集権的な官僚体制の制約を突き破りつつ、民間資本が成長してきたことの反映であった。そうした民間資本の代表格として史料に頻出するのが、「富商大賈《ふしようたいか》」と呼ばれた豪商である。前に紹介した一五三八年の議政府・戸曹・礼曹共同の啓は、もちこまれた倭銀の三分の一を公貿易することを提案したあと、こうつけくわえていた。 [#2字下げ]公貿易で買い取った残余の銀について、私貿易を許しますと、富商大賈が唐物を買い付ける原資とすべく、高値で銀を買い取って、かならずや大きな弊害が生じるでしょう。  ここから、㈰民間の資本が厖大にもちこまれる倭銀を高値で買い取れるほどに成長していたこと、㈪にもかかわらずその発展が国家政策によって抑圧されていたこと、の二点が読みとれる。  前述のように、一五四二年に「日本国王使」安心が八万両もの銀を朝鮮にもちこんで買い取りをせまったが、このときも政府の財力をはるかに上回る「富商大賈」の豊かな財力が指摘されている。 [#2字下げ]いま倭使は四年まえの戊戌年(一五三八)の交換レート(銀一万両=官木綿一六〇〇同)で銀を買い取るよう求めています。銀以外の商品は、みな市人が買いたいと望んでいる物です。国家は必要なものだけ買うことにし、不緊の物は市人に買うことを許可すれば、今日明日のうちに富商大賈がぜんぶ買い取ってしまうでしょう。  商人たちの倭銀との接点は、都ソウルにとどまらず、倭人が入港する慶尚道の沿海地域にまで伸びていた。一五四一年、ある「京人」が、「倭人と相通じて、銀を潜かに買い付けたが、その対価を支払わず、かといって銀を返しもしない」と倭人から訴えられた。義禁府が取り調べたところ、「妻の実家が宜寧《ウイニヨン》(慶尚南道晋州の北)にあるので、熊川《ウンチヨン》の人が私のことを知っており、銀をもって私の家に来ます」と供述した。  翌年六月に礼曹判書金安国が密書をもって王に啓したところによると、事件の首謀者は「京商人」の河有孫で、共謀した熊川の住人は逃亡したという。熊川は三浦《さんぽ》で最大の薺浦を管轄する城邑で、はやくから倭人との密貿易の一大拠点になっていた。ソウルの商人が、姻戚関係を媒介に、熊川とソウルを結ぶ銀の密貿易ルートを握っていたことがわかる。  以上のように、この時期、民間商人の実力にはあなどりがたいものがあったが、しかしその経済力を十全に発揮するには密貿易という不法領域に踏みこまざるをえず、つねに法や強制力による規制・摘発というリスクをまぬかれなかった。戦国時代の日本のような民間資本の自由な発展は、明との冊封関係のもと、中央集権的に編成された国家権力によって、抑圧されていた。一五四一年に左議政洪彦弼が呈したつぎのような意見書は、国家と民間商人のそうした関係を語るとともに、銀の精錬法の流出も同様の環境のもとで起きたことを示唆している。 [#2字下げ]近年、わが国の無頼でずるがしこい商人らが、ひそかに辺民と結んで、悪だくみをめぐらして、倭奴の仲買人とグルになって利を得ています。倭人が鉛を化して銀となすことも、わが国の巧商の手より出たことです。 †灰吹法の伝播[#「灰吹法の伝播」はゴシック体] 「鉛を化して銀となす」灰吹精錬法を日本にもたらし、日本銀の爆発的な増産を導いたのも、こうした多民族的ネットワークだった。  この精錬法の中心工程は、㈰銀鉱石に鉛を加えて溶解させ、含銀鉛を取り出す、㈪含銀鉛を加熱して、融点の低い鉛を灰吹床の灰に沁みこませて銀を分離する、という二段階に分かれる。『銀山旧記』によれば、一五二六年の発見直後は、石見銀山の銀鉱石は、神谷寿禎らによって鉱石のまま博多か朝鮮まで送られ、精錬されていたらしい。その後一五三三年以前に、鉱山現地で工程㈰を済ませ、取り出した含銀鉛を博多に送るようになって、輸送コストが大幅に下がった。一五二八年にソウルで「倭の鉛鉄」をもってひそかに銀を造った者が摘発されたことは前に記したが、この「鉛鉄」は鉛を含む銀鉱石そのものか、工程㈰を経た含銀鉛のいずれかと考えられる。  その後一五三三年に寿禎が宗丹・桂寿という技術者を博多から石見に連れてきて、工程㈰㈪の両方が銀山でできるようになり、飛躍的な増産が始まる。一説によれば桂寿(慶寿)は朝鮮人の鉱山技術者だという。 [#挿絵(img/fig14.jpg)]  灰吹法はこのようにして石見に定着したわけだが、それを担った人的ネットワークをほうふつとさせる事件が、一五三九年に朝鮮で起きている。中心人物は、全羅道《チヨルラド》全州《チヨンジユ》判官の柳緒宗という地方役人である。  緒宗は、さきに慶尚道《キヨンサンド》の金海《キムヘ》にいたとき、私人をひきいて加徳島に渡り、猟を行なって東莱県令に捕まったという。加徳島は倭人入港地|薺浦《チエポ》の沖合にある大きな島で、倭物の密貿易の絶好の基地となっており、当時ここに鎮を設けて密貿易をとりしまるという案について、朝廷で議論が行なわれていた。緒宗がこの島に渡ったのも、狩猟のためだけではあるまい。  またかれは金海の私宅をソウルの富商に提供して、そこに倭人を招き寄せ、密貿易を行なわせていた。そのさい倭人には朝鮮人のみなりをさせ、露見を防ごうとしている。ことが露われそうになると、逆に「もし公文書で命じてもらえるなら、自分が加徳島に入って倭人を捕まえてこよう」と慶尚道兵馬節度使にもちかけたが、拒絶された。その意図は、私宅に出入りする倭人を加徳島で殺し、自分の手柄にしようとしたのである。〈京商—地方官—倭人〉という人的連鎖が読みとれるとともに、土地の有力者でもある地方官のしたたかさを見ることができる。  緒宗はその後全州判官に転じると、全羅道|和順《フアスン》県の南にある蒜山《サンサン》という丘に亭を構え、守亭として私奴をおいて、京商が禁物を隠しておくための場所として使わせていた。緒宗の行状を調査するためソウルから送られた敬差官が、亭に集積されていた物資を摘発すると、危険を感じた緒宗は、まず守亭の奴を逃亡させ、取り調べを受けた妻の父も機をみて姿をくらまさせた。  そしてこれとあわせて指弾されたのが、私宅における銀の密造である。 [#2字下げ]緒宗の犯した罪はこれにとどまりません。倭とひそかに通じ、多くの鉛を買い、ひそかにそれを自宅で吹錬して銀を作り、倭奴をしてその術を伝習させました。その罪はもっとも重いものです。  右は司憲府の啓の一部であるが、これを受けて王が承政院に下した伝《でん》(命令)にもつぎのようにある。 [#2字下げ]柳緒宗には多くの疑惑がある。だから死罪にせず、くわしい事情が判明するまで刑訊すべきである。ただ、倭人と交通して多くの鉛を買い、吹錬して銀を作り、倭人をしてその術を伝習させたことについては、司憲府の啓にもとづいて取り調べよ。緒宗は武班の人ではあるが、官は判官にまでいたっており、無知な者とはいえない。かつ、銀精錬は普通の人にできるわざではなく、技術者がいてはじめて可能である。その家中に技術者がいたのかどうか、まだ明らかになっていない。  銀の密造だけでなく、倭人に造銀の術(銀精錬法)を伝習させたことを、司憲府や王はとりわけ重くみている。鉛(含銀鉛であろう)を売るために緒宗の私宅を訪れた倭人たちは、銀の精錬が行なわれているのを見て、その方法を学びとった。あるいはより積極的に技術を聞き出したかもしれない。  一五三八年よりどれくらい前のことか不明なので、これを灰吹法が最初に倭人に伝わった史実とすることはできない。灰吹法が石見銀山に導入されたのは五年前の一五三三年だから、おそらくこの一件よりまえに伝播はなされていただろう。しかしこの一件から灰吹法流出の情景を想像する[#「情景を想像する」に傍点]ことは、けっして不可能ではない。  ここに見えるのは、公的・国家的な交通のウラにある私的・非合法的な人間のネットワークである。だがそれは、柳緒宗が「全州判官」というりっぱな地方官を帯びていることから明らかなように、けっして社会の外部にあるアウトロー集団ではない。地方社会が経済的に豊かになり、私宅に銀精錬場を構え、精錬技術者も抱えられるような富有者を生み出していたことが、国家の厳重な禁銀政策にもかかわらず、灰吹法を国外に流出させていったのである。  このような経済的変貌は、柳緒宗の私宅の内部で完結するはずはなく、周辺の地域社会をも巻きこんでいたにちがいない。王の伝を受けて、領議政尹殷輔はつぎのように論じた。 [#2字下げ]緒宗がもし郷家において錬鉄作銀し、倭奴をしてその術を伝習させるにいたったのなら、となり近所がそれを知らないというのは不自然です。緒宗の家の隣人を連行して取り調べ、実情を得るよう務めてはいかがでしょうか。  そしてこのころから倭銀がどっと朝鮮半島に流入してくることは、さきにみたとおりである。朝鮮は、その原因が銀精錬法の流出にあることを、はっきりと認識していた。安心が到来した年である一五四二年の記録につぎのようにある。 [#ここから2字下げ] 倭奴が銀をもちこんで物資を買い付けることは、近年より始まった。わが国の奸細の徒が、ひそかに倭奴に造銀の法を教えた結果、この無窮の弊が生じた。防禁がなお厳重でないことを恐れる。 倭のもたらした書契のなかに「金山に真銀を産す、季世の偉珍なり」とある。かれはわが国の奸人から造銀の術を習得した。だからわが国の禁銀の法を、かれが知らないことがあろうか。 [#ここで字下げ終わり]  以上みたように、朝鮮半島南部の地方役人の家が、ソウルの商人と倭人との密貿易のアジトになっていた。おなじ場所が灰吹精錬の秘密工場でもあり、鉛をそこに売りこんでいた倭人たちが、やがて灰吹法の技術を学び、日本へもち帰った。灰吹法の流出ルートは、〈柳緒宗—宗丹・桂寿—神谷寿禎〉といった人的連鎖として理念化できる。むろん緒宗と宗丹らの間をつなぐ史料があるわけではないが、宗丹らが朝鮮人の工人だとすれば、緒宗のような有勢者の保護下にあった可能性は大きい。 †銀山奉行・大久保石見守[#「銀山奉行・大久保石見守」はゴシック体]  石見銀山で確立した銀生産の技術システムは、やがて兵庫県・生野や新潟県・佐渡や秋田県・院内の銀山にも移植されて、爆発的な増産をもたらしてゆく。生野銀山は、一五四二年に石見の商人が鉱石を買って石見へ運び精錬したことから始まるという。また佐渡金銀山の発祥である鶴子《つるし》銀山の発見も一五四二年のことだが、一五九五年に石見の山師三人が来山したことで、盛期を迎えたという。  しかしながら、その過程で生産力増大の果実をわがものとしていったのは、大内氏・尼子氏・毛利氏らの戦国大名、ついで豊臣・徳川の統一権力だった。仙ノ山のとなりにある山城《やまじろ》「山吹城」は、戦国時代に大内・小笠原・尼子・毛利などの大名が、銀山をわが手に確保するために争奪をくりかえした軍事拠点である。  三〇年も続いた争いは、一五六二年に毛利氏の勝利に帰したが、一五八五年、九州平定をねらう豊臣秀吉の圧力のもと、銀山は秀吉と毛利氏の共同管理に移行する。秀吉は、一五九二年に始まった朝鮮侵略戦争にさいし、石見銀で大量の銀貨「文禄丁銀」を造り、戦費をまかなった。  戦国争乱の最後の勝者となった徳川家康は、一六〇〇年の関ケ原の戦いの直後に、石見銀山周辺の七カ村に禁制を掲げ、軍勢・甲乙人の濫妨狼藉、放火、田畠作毛の刈り取り、竹木の伐採を禁じている。このとき全国に掲げられた禁制のなかでもっとも西のもので、家康の銀山によせるなみなみならぬ関心を知ることができる。  一六〇一年、家康は、江戸幕府草創期の能吏として有名な大久保長安を銀山奉行として石見に送りこみ、毛利氏の手から銀山をとりあげて直轄地とし、銀山周辺の一四四カ村、約四万八千石を銀山御料に指定した。その後幕府は各地の鉱山をつぎつぎと天領にしていった。長安はまもなく「石見守」の官途をなのるようになり、佐渡・伊豆など各地の金銀山の開発と運営に辣腕をふるった。仙ノ山の東山腹にはかれの名を冠した「大久保間歩」があり、下河原の吹屋跡の近くには墓塔が立っている。  このようなあつい手当てのもとに、新しい鉱脈の探査が精力的に進められ、やがて長安が備中国から呼び寄せた山師|安原伝兵衛《やすはらでんべえ》が、釜屋間歩《かまやまぶ》という優秀な鉱脈を発見する。伝兵衛は、おびただしく採掘された銀から三千貫を家康に進上し、辻ケ花丁字文胴服一領と扇一柄を褒美にもらった(清水寺《せいすいじ》蔵)。かれは「備中守」の官途をなのるまでに出世し、その墓所は仙ノ山南東の山腹にある。  さきに述べたように、銀山の繁栄を準備したものは、たしかに倭人のネットワークであり灰吹法の導入による技術革新だった。しかし、世界の産銀の三分の一を占めるほどの爆発的な増産は、幕藩体制の成立によるかつてない権力集中と、その条件下での生産力の効率的な管理運用がなければ、けっして達成されなかっただろう。 [#改ページ]   【第6章[#「第6章」はゴシック体]】 統一権力登場の世界史的意味 [#改ページ] 【年表[#「年表」はゴシック体]】(第1章扉裏より続く) [#ここから2字下げ] 1551 大内氏の滅亡 1551 蠣崎氏とアイヌ首長、講和条約を結ぶ 1555 このころ、後期倭寇の最盛 1557 ポルトガル人、明よりマカオ居住を許される 1558 松浦鎮信、平戸よりガスパール=ビレラを追放 1567 明、海禁を解除 1568 織田信長、将軍足利義昭を押し立てて入京 1570 琉球船、東南アジアから姿を消す 1571 長崎にポルトガル船が入港 1571 スペイン、マニラ市を建設 1575 信長、鉄砲隊を駆使して武田軍を破る (長篠の戦い) 1580 大村純忠、長崎をイエズス会に寄進 1587 豊臣秀吉、キリスト教を禁止 1592 秀吉の第1次朝鮮侵略 (文禄の役) 1597 秀吉の第2次朝鮮侵略 (慶長の役) 1598 秀吉の死、朝鮮侵略おわる 1600 徳川家康、石田三成らを破って覇権を握る (関が原の戦い) 1604 家康、松前氏にアイヌ交易権を安堵 1609 島津氏、琉球に侵入 (古琉球の終焉) 1609 オランダ東インド会社、平戸に商館を設立 1616 ヌルハチ、後金を建国 1619 ヌルハチ、サルフ山に明軍を撃破 1633 幕府、最初の「鎖国」令を発布 (1639 完成) 1637 島原・天草一揆 (〜1638) 1641 オランダ商館、長崎の出島に移転 1644 李自成、明朝を倒す 清軍の北京入城 (明清交代) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] †近世日本の「四つの口」[#「近世日本の「四つの口」」はゴシック体]  以上、日本列島の周縁部に視点をおきながら、一六世紀から一七世紀はじめにかけての歴史のうねりを見てきた。それをふまえながら、再度日本の中心部における統一権力の登場をとらえなおすと、どんな像が浮かんでくるだろうか。  まず確認しておくべきはつぎの点である。幕藩体制の成立として帰結する動きは、日本国内の中央集権的支配構造を生み出しただけでなく、国家外の勢力に対する関係の再編成をともなった。これはふつう「鎖国制の成立」として語られるが、従来のように、長崎をおもな舞台として、ヨーロッパ勢力との関係を中核におき、付けたりとして中国人との関係にふれる、といった程度では不充分なことは明らかだ。  もちろん、近年の日本近世史学界では、長崎だけを「鎖国日本」の窓口とみるのでなく、対馬を通じての朝鮮との関係(対馬口)、松前を通じての蝦夷地との関係(松前口)、薩摩を通じての琉球・中国南部との関係(薩摩口)の三つを加えて、〈四つの口〉として把握し、それらの総体として近世の対外関係を考える視点が一般化しつつある。  そのメリットのひとつは、「鎖国」を近世日本に独特のものとしてしまうのでなく、中世からの連続面と断絶面を統一的に理解する視点を提供した点である。 〈四つの口〉のうち対馬・松前・薩摩の三つは、それぞれ対馬藩・松前藩・薩摩藩に国家のもつ対外機能の一部を委譲することでなりたっている。これは宗氏・松前氏・島津氏という中世以来の大名=地域権力が、それぞれの地理的位置にもとづいてつちかってきた外との関係を、幕藩制の論理のもとに編成したものである。  たとえば対馬藩は、「朝鮮押えの役」をはたすこととひきかえに、一般の近世大名が負担する参勤交代などの「役」を軽減されていた。また宗氏は、藩領の土地生産力をはるかにうわまわる「十万石格」を認められていたが、それは朝鮮外交の重要性と朝鮮に対する体面を幕府が考慮したからである。  では幕府はなぜ対朝鮮外交を直轄しなかったのだろうか。おもな理由は、第一に、中世以来対馬がつちかってきた外交能力なしには、朝鮮外交を円滑に進めることがむずかしかったこと、第二に、朝鮮側も、宗氏以外の者が対日外交の場に出てくることを望まなかったこと、のふたつであろう。江戸時代後期に朝鮮貿易のうまみが薄れ、「朝鮮押えの役」が藩にとって過大な負担になってくると、対馬藩は内地への転封を口にして幕府から援助をひきだすようになるが、対馬をさしおいてその役をはたせる藩はなかった。  似たような事情は、他のふたつの「口」にも指摘できる。  松前藩は、封地のかわりにアイヌとの交易権を知行として家臣に与え(商場《あきないば》知行制)、のちにはこれが商人の請負に委ねられるにいたった(場所請負制)。このシステムによって内地にもたらされる蝦夷地の産物は、上方や江戸における重要な消費物資となり、また長崎の中国貿易における輸出品となった。また松前氏は、いちおう一万石格の大名の家格を与えられていたが、その領知を記した朱印状には、はなはだ異例なことに、アイヌ交易の管轄権しか記されず、石高《こくだか》の記載が欠けていた。  一八世紀末以降、ロシアの勢力が北辺におよび、海防問題がかまびすしくなると、幕府は蝦夷地を直轄領に編入する措置をとったが(東蝦夷地が一八〇二年、西蝦夷地が一八〇七年)、ほどなく松前藩に返さざるをえなかった(一八二一年)。  薩摩藩は、その領知石高のなかに琉球の分もふくめて認められており、その意味で琉球は幕藩制的知行体系に組みこまれていた。しかし琉球王府は、薩摩藩の監視を受けながらも、独立の国家機構を維持して、国内の人民支配を実現し、とくに中国に対しては独立国として冊封関係をもちつづけた。これは「異国」を従える雄藩であることを誇示したい薩摩藩と、対中国関係の復活をさぐるために琉球と中国との関係を利用したい幕府との、思惑が一致した結果であった。  だがそれだけに幕府としては、右の枠組を一方的に変更することは不可能であり、その結果琉球人が自己を「日本」の一部とする意識は育ちにくかった。幕府倒壊の過程で、琉球の一部の知識人が清の力を借りて明治政府の圧力をはねかえそうとする動きを示したことは、幕藩体制のもとで琉球のおかれた二重の位置づけを照らし出している。  以上、対馬・松前・琉球の三つの口では、幕府を中心とする中央集権的・官僚制的な対外関係の編成が貫徹せず、中世よりひきつがれた〈領主制的〉ともいうべき特徴が強固にのこった。維新変革のなかで、それらが近代国民国家の一元的な対外関係管理へと移行するにさいして、さまざまな興味ぶかいあつれき[#「あつれき」に傍点]が生じたが、それを論じることは本書の守備範囲を超える。  これに対して「長崎口」の性格はまったく異なる。長崎は幕府派遣の奉行が支配する直轄地であり、幕藩体制におけるその役割は、出島のオランダ人や唐人屋敷の中国人の管理だけではなかった。日本の海岸にあらわれる外国船は、漂流であれ通商を目的とするものであれ、すべて長崎に回航され、長崎奉行の取調べを受けるきまりだった。  ここには〈領主制的〉要素は希薄で、江戸からの指示を指揮系統にしたがって実行するという〈官僚制的〉性格が貫いている。「長崎口」こそ中世的分散性を払拭した近世の創造物であり、近代的な対外交通管理を準備したものといえよう。  しかし以上のべたことは、「国民国家としての日本」のあゆみに即して見たかぎりでの、中世から近世への移行の意味にすぎない。世界システムとしての東アジアの歴史に即するならば、この時期の第一の特徴は、中国中心部にとっての辺境地域から、高度に組織された軍事力に支えられたあらたな国家権力が出現したことに求められる。日本の統一権力と、のちに中華を併呑することになる女真勢力(後金→清)である。その出現は、軍事的・政治的な変動にとどまらず、生産力の拡大にともなう経済変動に支えられた、根っこからの動きだった。  当時のアジア人はそれを「華夷変態」ということばで表現している。 †辺境の経済ブームとヌルハチの擡頭[#「辺境の経済ブームとヌルハチの擡頭」はゴシック体]  遼河・松花江・鴨緑江の三大河が源を発する満州南部に盤拠する女真族の一派を、建州女真という。一六世紀後半、そのなかからヌルハチ(一五五九〜一六二六)という英雄があらわれ一五八〇年代に建州女真を統一、さらに明が朝鮮で日本軍と交戦しているすきに、他の女真諸部族をあわせ一七世紀はじめには全女真の統一に成功した。さらにはやくも一六一九年、サルフ山で九万の明軍を撃破する大勝利を収め、明の没落を決定づけた。  この時期の女真族の驚異的な擡頭は、機動的軍事力のみによるものではない。中国中央部のめざましい経済発展が、辺境にまきおこした経済ブームにも支えられていた。その秘密を、岩井茂樹・松浦茂の研究によりながらまとめておこう。  女真居住地域の特産は、高級生薬の人参、松花江水系の淡水真珠、貂や狐の毛皮などで、女真の首長層は、これらを中国本土や朝鮮に売ることで、巨大な利潤を得ていた。明は、かれら首長層に都督・都指揮使・指揮使などの武職を授与して、辺境地域の安全を確保するかたわら、かれらに朝貢貿易の権利を認め、あわせて辺境防備線上のいくつかの関門において馬や木材の交易を許した。そのもっとも大規模なものが撫順馬市である。皇帝の宝璽(印章)が捺された武職への任命書は「貢敕」と呼ばれ、一種の貿易許可証として機能した。  一六世紀なかば以降になると、女真の有力首長が、明側の辺境防備指揮官と結んで、大量の貢敕を手に入れ、貿易の権利を独占するようになる。皇帝発給文書であるはずの貢敕は、北京の管理をはなれ、辺境防備指揮官によってなかば自由に授与されるようになる。こうした辺境交易シンジケートのなかから擡頭してきたのが、辺境防備指揮官サイドでは李成梁(先祖は女真人という。文禄の役の明軍の指揮官李如松の父)、女真サイドでは首長層をたばねる棟梁として「巨酋」と呼ばれた実力者たちであった。  右のような女真族の経済的実態は、素朴な遊牧社会と精強な騎馬軍団、といった通俗的なイメージとはずいぶん異なっている。  およそ女真族は、遊牧主体のモンゴル族とはちがって、農耕を主、狩猟や採集を従の生業としており、意外に定住性の強い民族である。また、第5章で一六世紀前半に黄海上で活動する「※[#「けものへん+達」]子」のことにふれたが、かれらは一五世紀の末から遼東の海岸で海賊を働いていた。この※[#「けものへん+達」]子こそ建州女真であり、その海洋民族としての性格も見のがせない。  そうした社会から、中国中心部の巨大化した消費社会にむけて、人参・毛皮などの高級物産を送りこむ武装商業集団こそ、英雄ヌルハチを生んだ母胎であった。 「巨酋」を生んだ辺境の経済ブームには、日本銀も一役かっている。第5章で紹介した『通文館志』の記事は、朝鮮国境に近い遼東の鳳城周辺の経済的繁栄を述べたあとに、こうつけ加えていた。 [#2字下げ]わが民(朝鮮人)が市にもっていく物は、人参以下の禁物か、さもなければかならず銀だ。銀は国産品でないので、公私の蓄えにかぎりがある。かつ商人たちは利をむさぼるあまり、銀を備蓄することなく、市のたびに財布をはたいて銀を遼東に送り、一度送ってしまった銀は二度と戻ってはこない。  女真居住地域の特産物とされる人参の一部が朝鮮産であることがわかるが、その人参のほかに、銀が朝鮮商人によって鳳城の市にもちこまれている。「国産品でない」と明記されるこの銀は日本銀にちがいない。当時の遼東の朝鮮国境近辺は、北京の中央政府の威令がおよばない女真および辺境防備指揮官のテリトリーだった。この銀が「巨酋」の手に流れこんだことは充分考えられる。 †豊臣秀吉の挑戦と敗北[#「豊臣秀吉の挑戦と敗北」はゴシック体]  日本列島を長期にわたってまきこんだ戦国動乱のなかで、戦国大名は、高度に組織化された軍事力を獲得していった。かれらは武力を唯一の頼みとする一種の自信を抱くようになり、それが国際社会における日本の自己意識にもはねかえっていく。  一五四四年、対馬島主の船が朝鮮に来て駿馬を求めた。これは先例にない不遜な行為で、なにか異心があるのではと疑われた。そのさい朝鮮のある法曹官僚はこう述べている。 [#2字下げ]聞くところでは、倭人が中国へ行って、「日本は朝鮮を服従させているから、席次は朝鮮の上にしてほしい」といったそうです。これは倭人を厚遇してきた朝鮮の恩に思いを致さず、かえって驕りの心を生じ、中国における席次を争うものです。こうした言動は、朝鮮にとってこのうえない恥辱であります。倭国との交隣には節度が必要で、交わりを絶つことはできないとは申しましても、ことここにおよんでは、制限を加えるのもやむをえないでしょう。  北京で問題発言をした「倭人」とは、一五三九年に入明した第十八次の遣明使|湖心碩鼎《こしんせきてい》の一行と思われる。副使策彦周良は、寧波に入港して、通事周文衡に筆談で「吾が国は高く朝鮮・琉球の上に出《い》ず、是れ曩昔《のうじやく》以来の規なり」と語った(『初渡集』天文八年五月二一日条)。  この遣明使は事実上大内義隆の送ったものだ。義隆は、領国内に確保した石見銀山のシルバー・ラッシュを背景に、朝鮮に対して強気に出た、と解してはうがちすぎだろうか。  一五四二年に種子島に伝えられた鉄砲は、堺の商人らによって畿内にもたらされ、戦術に大きな変化をもたらした。一五七五年、織田信長が鉄砲隊を組織的に駆使して、精強で聞こえた武田軍を打ち破った長篠の戦いは、戦国の群雄割拠が統一権力の生成へと方向を転じる画期となった。  動乱の最後の勝者となって天下を掌握した豊臣秀吉が、より大きな自信と自尊意識をもって国際社会に臨んだのは、当然のなりゆきだった。秀吉が対外経略のもくろみを公言した最初は、関白になった直後の一五八五年九月だが、「唐国まで仰せ付けられ候」ということばどおり、最初から目標は明にすえられていた。  同時に朝鮮の服属も、かれの構想にとって不可欠のステップだった。一五八七年五月、島津征伐の陣中から妻にあてた手紙に、「高麗の王に早船で「日本の内裏へ出仕せよ、さもなくば来年成敗するぞ」と申し遣わした。私の命あるうちに、唐国まで手に入れる所存だ」とある。  一五九二年四月、日本軍は釜山に上陸し、わずか二〇日ほどでソウルを占領した。肥前名護屋で勝報に接した秀吉は、五月一八日、征明成就後のマスタープランを明らかにした。  ㈰後陽成天皇を北京に移し都廻りの一〇カ国を料所とする。弟秀次を大唐関白として都廻り一〇〇カ国をわたす。㈪日本帝位は良仁親王・智仁親王のいずれでもよい。日本関白は羽柴秀保・宇喜多秀家のいずれかとする。㈫高麗は羽柴秀勝か宇喜多秀家に支配させる。そして㈬秀吉自身は「日本の船付き寧波《ニンポウ》府」に居所を定める。……  中国を中心とする世界システムをまるごと呑みこんでしまおう、できれば天竺まで切り取ろう、という壮大な構想(幻想?)である。東アジアに伝統的な「中華」への尊崇、慕夏思想は、弊履《へいり》のごとく捨てさられている。その背景には、「日本弓箭きびしき国」が「大明の長袖国」ずれに負けるはずがない、という軍事力に寄せる絶大な信頼があった。  さらに注目すべきは、大唐・日本・高麗・天竺のすべてを総覧すべき秀吉自身の居所が、寧波に予定されていたことだ。これはシナ海交易の掌握こそが、帝国支配のかなめと考えられていたことを意味する。この意味で秀吉は、かの倭寇王王直の血をひく〈倭寇的勢力〉の統轄者だ。その出発点は、かれが一五八八年の「海賊停止令」によって、シナ海域に〈海の平和〉の守護者として臨んだときに求められよう。  こうして始まった戦争は、緒戦の快進撃もつかのま、朝鮮人民の抵抗と明軍の参戦によって泥沼化し、朝鮮半島に無残な荒廃を残して、一五九八年、秀吉の死去にともなう日本軍の撤退によって終了した。この失敗は豊臣政権の命とりとなり、わずか二年後には関ケ原で西軍が大敗する。  しかし勝利した明側にとっても、戦争による人的・経済的損失は大きく、中華への反逆がこんなにも公然と試みられたことへの衝撃とあいまって、明の国運は大きく傾いた。 †華夷変態と禁教[#「華夷変態と禁教」はゴシック体]  一六〇九年、ヌルハチは明の支配領域との境界に女真文字の石碑を建てようとしたが、その文案中に「なんじは中国、われは外国、両家は一家」という不遜な表現があった。ついに一六一六年、ヌルハチは後金という国号と天命という年号をたて、明からの自立を宣言した。境界を越えてくる明人を捕殺し、一六一八年には「七大恨」を唱えて明に宣戦を布告した。この文書には、中華に対して臆するところがまったくなく、逆に天命われにありという確信にみちている。  このころの後金は、明とくらべ数のうえではとるにたりない勢力にすぎなかった。兵力が約五万、配下の人口が数十万といえば、明ではせいぜい府ひとつ程度でしかない。しかしながら軍事行動を前提に編成された規律ある社会組織をもつことによる自信と自尊意識は、秀吉と共通するものがある。  一六一九年にサルフ山で大勝利をおさめた後金は、一六二七年と一六三六年には朝鮮半島に侵入し、対日戦争後の復興をはかっていた朝鮮に大きな打撃を与えた。一六四四年、明は李自成の反乱によって内側から崩壊し、すぐに清《しん》(一六三六年に後金から改号)軍が李自成を北京から追いはらって、漁父の利をおさめた。  こうして中華の崩壊は現実のものとなった。秀吉の蒔いた種を清が刈り取ったといえるかもしれない。華と夷がところを替えたこの事件(華夷変態)は、中国や周辺地域の人々に対して、根本から世界観の見なおしをせまるできごとだった。  清自身は、みずからを中華の主として認知させるために、国家の制度をととのえ、文化を奨励し、康煕・雍正・乾隆の盛期を現出した。しかし朝鮮や日本は明の回復を願い、清を容易に中華と認めようとはしなかった。明回復の不可能をさとったとき、朝鮮や日本にこそ華は生きのびている、という文化的自尊意識が出てくる。  また、伝来以来半世紀のあいだに、おもに九州地方や畿内で急激に信者を拡大したキリスト教は、つぎの二点において、統一権力にとって危険な存在となりつつあった。  第一に、信者たちが「日本的華夷観念」をはるかに超越した「デウス」に、死後をもふくめた精神のよりどころを得たことである。それが中世的な「一揆」の伝統と結びつくことにより、幕藩制的な領主支配を拒否するてごわい抵抗の論理となったことは、一六三七〜三八年の島原・天草一揆に示されている。  第二に、イベリア両国のカトリックと植民勢力の合作による、日本の「インディアス化」の危険性である。肥前大村領内では、全領民のキリシタン化を望む純忠の政策により、万単位での改宗者があいつぎ、ついに一五八〇年、純忠は長崎と茂木を教会領に寄進するにいたった。これを受けてイエズス会は、ポルトガル人を中心に両地を要塞化し、八七年豊臣秀吉が最初のキリシタン禁令を発すると、キリシタン大名に軍事援助を行なって秀吉への武力抵抗を組織することをもくろんだ。  秀吉や家康は、布教を貿易から切りはなして禁止することを考えていたが、イベリア両国の世界進出が両者を車の両輪として行なわれた以上、それは不可能であった。けっきょく徳川幕府は、キリシタン禁圧を旗じるしに、一六三〇年代までに、対外交通の国家による徹底した管理体制(いわゆる鎖国制)を築くと同時に、在地の郷村にキリシタンがいないことを証明させる「宗門人別改」を通じて、一七世紀なかばまでに、戸籍制度に相当する領民把握のシステムを創出した。  一七世紀、華夷意識と集中的軍事力に支えられた対外交通管理の体制は、日本以外の各国でも再建強化された。清や朝鮮の海禁は一六世紀以前よりずっときびしくなった。一六五三年に台湾から日本に向かう途中、朝鮮の済州島に漂着したオランダ人たちのなめた苛酷な体験は、その息ぐるしさを生々しく伝えている(ヘンドリック=ハメル『朝鮮幽囚記』平凡社東洋文庫)。  こうして一六世紀のアナーキーな状態は一変した。国家領域を超えて〈地域〉が存立しうる条件は大きく後退し、中央集権的な統一国家権力、いわゆる幕藩体制が、〈地域〉の担い手たちの活動を窒息させていった。 †統一権力の生産力的基礎[#「統一権力の生産力的基礎」はゴシック体]  日本の中世から近世への移行を示す指標はいくつもあるが、もっとも根底的なものは、やはり生産力のかつてない拡大であろう。  まず農業生産力の基礎条件をなす耕地面積に注目すると、一七世紀に幕府や各藩が主導して進めた新田開発によって、水田面積は約二倍になったといわれる。農業技術の進展による反あたり収量の増大と相乗して、この時期には史上有数の農業生産力拡大が実現した。それに支えられて、幕藩権力は、あらゆる生産力を石高(米の生産量)に換算して、それを領主階級の知行体系を表示する尺度とすることができた。  鉱工業の第二次産業分野でも、生産力の拡大は驚異的である。  戦国の動乱が列島各地の金銀山開発を加速し、第5章で見たように、技術革新をともなう生産量の爆発的な増大を生んだ。しかし、日本銀が世界の総生産の三分の一を占める、というような事態は、一七世紀、幕藩制国家による生産設備および労働力編成の組織化がなければ、実現することはなかっただろう。  また窯業の分野でも、秀吉軍が朝鮮から連れてきた陶工が九州各地に磁器焼成技術をもたらし、一七世紀前半には中国・景徳鎮の色絵磁器と肩を並べるほどの技術水準に到達する。明清交代の混乱による景徳鎮の一時的不振を埋めるように、有田焼(海外では積出し港の名をとって伊万里と呼ばれた)を中心とする北九州の磁器は、東南アジアやヨーロッパにまで販路を拡げた。磁器焼成技術を欠いていた中世窯業の段階とくらべると、あきれるほどの進歩の早さである。  さらに第三次産業分野として水運をとりあげてみよう。  日本列島周辺の海上では、比較的早くから長距離の廻船が営業しており、とりわけ一五世紀の瀬戸内海航路のにぎわいぶりは、「兵庫北関入船納帳」がよく示している。しかし秀吉の朝鮮侵略戦争にともなう軍需物資の輸送には、各地の港町の有力海運業者が総動員され、結果として全国規模の有機的な物流システムを登場させた。これは中世にはなかった規模での物の動きであったにちがいない。  この経験をひきつぐかたちで登場した本州を一周する東廻り・西廻り航路には、千石積クラスの大船が投入され、江戸時代における上方・江戸の二中心的物流構造を支えた。こうした海運の変貌は港町の盛衰に直結し、中世にさかえた港町であっても大船の繋留できない浅いところは没落を余儀なくされる。近世の海運が中世では想像もつかないほどの巨富の源泉であったことは、北陸の港町に残る北前船船主の壮麗な屋敷が教えてくれる。  以上に生産力拡大の例をいくつか示したが、それらはいずれも社会のなかから純経済的に自生してきたものとはいいがたい。戦国の権力分散状況を克服して中央集権的な支配システムを作りあげた統一権力が、さまざまな生産手段や技術力や労働力を有効に編成してはじめて、実現しえたものである。しかし逆に、かつてなく強大な統一権力の誕生を根底で支えたものが、この時期の生産力拡大であったことも事実である。  統一権力の生成と生産力の拡大とは、どちらかが原因で他が結果だ、というような単純な関係ではなく、両者の働きがうまく相乗したところに、車の両輪のごとく走り始めたのである。そして双方のいずれにも、一六〜一七世紀のアジアに生起した世界システムの変貌と、端緒的な資本主義世界経済との接触が決定的な作用をおよぼしていた。 †荒海に揺れる木の葉[#「荒海に揺れる木の葉」はゴシック体]——秀吉と波多三河守[#「秀吉と波多三河守」はゴシック体]  中世から近世への移行期は、社会のありかたが劇的に変貌をとげた時代である。この時を生きた人々は、個々の意思をはるかに超えた力に衝き動かされ、引きずり回される思いを味わった。そこには人の世の浮き沈みがとりどりに見られた。だが波多三河守《はたみかわのかみ》ほど極端な天国と地獄を見た人もめずらしい。  波多氏は、肥前国上松浦党の佐志《さし》一族に属し、東松浦半島のつけねにある波多を名字の地とする。室町時代を通じて群小武士のひとりにすぎなかったが、戦国末の鎮《しずむ》(のち親《したし》と改名)のとき、岸岳《きしだけ》城に拠って上松浦諸氏の盟主的存在となった。同族|有浦《ありのうら》氏の系図「松浦有浦系図」によれば、鎮は肥前国高来郡の領主有馬晴純の実子で、中絶していた波多家を再興した。平戸松浦氏との対抗上、有馬氏から送りこまれたものらしい。しかし松浦・龍造寺・大村氏などのはざまにあって勢力は伸び悩み、戦国大名と呼ぶにはあまりに未熟な存在でしかなかった。  そんな平凡な地方領主の運命を変えたのが、天正一五(一五八七)年の秀吉の九州征伐である。秀吉は三月に九州へ下向し、はやくも五月には島津氏を屈伏させ、六月二六日、筑前筥崎の陣で茶会を催した。確証はないが、波多親もこれに参加したと思われる。  秀吉には親に注目すべき理由があった。東松浦半島は、朝鮮に軍勢を渡すにはなくてはならぬ橋頭堡である。天正一九(一五九一)年に兵站基地として築かれた名護屋城は、まさに波多領内にあった。  いっぽう、上松浦一帯は朝鮮系の技術の影響を受けた窯業の先進地で、中世末期には磁器を焼くことも可能な連房式登り窯が登場していた。この時期の窯業が茶湯《ちやのゆ》と密接な関係を有したことはいうまでもない。上松浦の領主たちのあいだでは、秀吉政権との接触よりまえから、相当洗練された茶の文化が根づいていたとみられる。  こうして波多親と豊臣大名や豪商とのつきあいが始まった。天正一六(一五八八)年正月、おそらく博多から、国元を預る有浦|高《たかし》に宛てた親の手紙には、加藤清正・小西行長・小早川隆景・鍋島直茂・神屋|宗湛《そうたん》ら、そうそうたる名前があらわれてくる。  まもなく親は秀吉の命によって上洛の途についた。「少身と申し、初めての上洛と申し、家の安堵さえ有るべきや否やにて罷り上り候」(三月晦日付親書状)という心細い旅だったが、かれを待っていたのはめくるめくような日々だった。京都から有浦高に宛てた三通の手紙(二月二六日付をa、三月五日付をb、三月三〇日付をcとする)を読んでみよう。  親が秀吉から目をかけられるについては、京都の奉行浅野長吉(長政)のとりなしが物をいった。何より気になる家の安堵についても、長吉の力によって案ずるまでもなかった。親が長吉に最大級の謝意と賛嘆をくりかえしているのも無理はない。  ……「浅野殿御心得にて候間、何事も心安く罷《まか》り居り候」(a)。「かくの如きの段も、偏《ひと》えに弾正殿(長吉)御芳志まで候、奇特《きどく》千万に候」(c)。「万端《ばんたん》浅野殿御心、懇志謝し難く候、洛中洛外衆も、「浅野殿へ仰せ入れられ候事、奇特の仕合《しあわ》せ」と申□、天下に於ての御威勢、上様(秀吉)の外《ほか》には弾正殿と見え申し候」(b)。  花の都の数寄《すき》の場にも、長吉の導きで交わることになった。 [#2字下げ]洛中洛外の名所旧跡、当時の見事さ、名人の能乱舞、万事に下向を忘るる計《ばか》りに候。浅野殿御数寄にて候間、毎日乱舞まで候。茶湯・乱舞のさかりと見え候。見せ申たさ、/\。浅野殿の謡《うたい》、洛中の名人のよりも承わる事に候。(a) 「茶湯・乱舞のさかり」に「万事に下向を忘るる計り」の夢のような日々が続く。長吉の謡は洛中の名人も顔負けの上手だったらしい。  親が短い上洛中に交わった茶人たちの顔ぶれも豪華である。 [#2字下げ]宗易・宗及へ御茶給わり候。名物ども多々拝見申し候。細川殿へも召し出され、御茶下され、種々御等閑(疎略な扱い)なく御雑談ども、中々書中に尽し難く候。なかんづく易よりは御道具の数々給わり候。京都に於て茶湯《ちやのゆ》の色をこそ上げ申し候。外実(外聞実儀の略で「内外ともに」の意)この事に候/\。「彼の手前見せ申し候わで/\、天下一とはさてこそ申し候え」と、存じ候事まで候。中々言語に絶し候。(b)  宗易は千宗易つまり利休、宗及は堺の豪商津田宗及である。親はこのふたりから茶を給わり、多くの名物(名の聞こえた茶湯道具)を見せてもらった。細川幽斎からも声がかかり、茶を給わって親しく雑談を交わした。なかでも宗易からは数々の茶道具を給わるというもてなしぶりで、親は宗易の点前《てまえ》こそ天下一と絶賛している。親自身も茶のたしなみに自信をつけ、「今度《こたび》の在京に、形の如くの名人に罷り成り候て罷り下るべき事ども、多くは下向の節、意の如く大笑※[#記号(img/mark.jpg)]」(b)と書いている。  親の寵児ぶりは物見高い京童のあいだで評判になった。秀吉は京都滞在費用として米三〇石を長吉を通じて親に給与したが、ふつう国衆はみずから蔵元へ出かけて米を受け取るのに、親の場合は、秀吉の特別のはからいで、「下野殿御小宿まで駆けさせ申し候由、奉行を以て御|口能《くちきき》にて、車にて洛中を渡され候」ということになった。下野殿とは「松浦有浦系図」によれば親の実弟で、実名は左《たすく》。  有浦威の養子となって有浦家を継いだ。高の父になる。親の上洛に同行していた左の旅宿へ、車に載せて米が届けられたのである。親や左は上京《かみぎよう》の小川町(京都御所と西陣の間あたり)に宿をとっていたらしいが、「小川町中の京童も奇特のよし申す事に候、洛中の面目を播《ほどこ》し候事」と親は書いている(b)。  三月二七日、長吉のもとへ秀吉の御成があり、「(親に)公家の位を御免候、諸大夫《しよだいぶ》に任ぜらるるの由 上意」が伝えられた(c、以下も同じ)。親は三〇日に参内し、三河守の官途を賜った。その上「氏をも 殿下様(秀吉)のをと仰せ下され、豊臣氏に相定められ」た。親程度の国衆に豊臣姓が許されたのは破格の待遇である。かれが「家の面目、一代の名誉、後代の連続、大慶極りなく候」と狂喜したのも当然だろう。  身の幸運が時の勢いによるものであることを、親は知っていた。……「当御代の躰[#「当御代の躰」に傍点]とは申しながら、かくの如きの事どもは、忰家《せつけ》に於て近代承わり伝えず候」「然れども当世に彼様の類ども多々候[#「当世に彼様の類ども多々候」に傍点]の間、我等も生得の高運にてこそ候らん」。そこにかれは神仏の意思を見た。……「ただただ氏神の御加護までに候」「何と候ても彼様《かよう》の名利《みようり》は人作《にんさく》にあらず/\」。国元に「上下万民精に入り候ずるは、誠精信心《せいせいしんじん》の外これ有り難く候」と申し送っているのも、そうした心情のあらわれである。  さらにかれはこうも書いている。……「かくの如きの事どもは、忰家《せつけ》に於て近代承わり伝えず候、空おそろしく候」「人も我身も知らぬは人間の身上に候」。有頂天のなかにしのびこむかすかな不安。それは五年後に現実となる。  天正二〇(一五九二)年四月に始まった朝鮮侵略戦争において、波多親は第二軍の鍋島直茂の麾下に入れられた。かれは、龍造寺氏の家臣から身を起こしたなりあがり者に従うのが不満だったらしい。(松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島純玄ら肥前の傍輩《ほうばい》たちは、みな独立の軍団を率いて、宗義智・小西行長とともに第一軍を構成している。)直茂と出兵をともにせず、渡海後も直茂に従わずに慶尚道の熊川あたりに留まって動こうとしなかった。  これが怯懦のふるまいとして秀吉の逆鱗に触れた。翌文禄二(一五九三)年二月五日、朝鮮から国元の有浦高・馬場道二に送った長文の手紙で、親は、ようやく都(ソウル)入りをして「少し去年以来の外聞[#「去年以来の外聞」に傍点]を引きなおし」たと述べ、あるいは「そこ元の者ども、機弱り、郷中の破却先だち候わん事、無念に候」と国元を気遣っている。ことにつぎの一節は、強がりと愚痴がいりまじってあわれを誘う。 [#2字下げ]当弓箭の行《てだて》に依り、身上の儀は、更に覚えなく候。日本国中人なみなり。頼む所は御神慮天道ばかりに候なり。然りと雖も、この節進退破却の儀、少しも悔なく候。第一は忰家の届、第二には弥太母子遠□の式に、我等爰元にて打ち果て候えば、彼の進退まず相残る事に候。幸い千万に候。さて又かくの如く申し候とて、ただ爰にて死にたきにあらず候間、何とぞ成るべき限りは相歎き候て、存命すべく候間、是又愚智には有るまじく候えば、気遣いいるまじく候。  讒言による濡れぎぬだとの弁明も空しく、ついに同年五月一日、親は領地没収の憂き目にあい、身柄は黒田長政に預けられた。このとき、豊後大友氏の当主|義統《よしむね》と、薩摩島津氏庶流で出水《いずみ》の城主|忠辰《ただとき》も、同様の処分を受けている。  このころ、日本軍は明・朝鮮軍に対して受け身にまわっており、四月一八日には一年間確保したソウルを明け渡さざるをえなくなっていた。兵たちには厭戦気分がはびこりつつあり、三人の処分には多分に見せしめの要素があった。義統の処分を発表した秀吉朱印状に、「大明国御取あい半《なか》ば、右臆病者の儀は、三国《さんごく》に憚り候事に候の間、見こり[#「見こり」に傍点]のために候」とある。  こうして波多親は、歴史のうねりに呑みこまれて姿を消した。だがかれの居城岸岳の周辺では、三河守はいまも生き続けている。  岸岳西北側の北波多村では、地区ごとに「岸岳|末孫《ばつそん》」と呼ばれる土饅頭や中世石塔を集めた塚があって、たたり神として畏怖と信仰の対象となっている。また北麓の法安寺は、三河守とその家臣の怨霊を慰めるため、一九二三年(!)創建された。七〇周年となる一九九三年には三河守の巨像が造立され、新四国八十八カ所の霊場として繁盛している。  時代の激動にもてあそばれた三河守の運命が、人々の共感を誘うのであろうか。 [#改ページ]   あとがき  日本の中世前期史から研究生活を始めた私にとって、一六世紀、戦国時代の歴史は、長いあいだ、魅力はあるが気軽には手を出しかねる禁断の花園だった。列島の各地から独自の歴史の足音が聞こえ、近世社会という巨大なシステムがうぶごえをあげる、混沌とした時代。それは私の手にあまる複雑さにみちていた。  その後問題関心が中世後期へと移動し、分野では対外関係史へと収斂するにともなって、日本史の一六世紀は、アジア規模、さらには世界史的文脈における巨大な変動の一部として理解しなければならない、と考えるにいたった。だがそれでもなお、一九八八年に最初の著書『アジアのなかの中世日本』をまとめた時点では、一六世紀史を列島と外の世界との交通が衰退する時期という、あやまった見方でみていた。  その一六世紀の列島周辺の歴史を、はじめて具体的かつ総体的に考える機会を与えてくれたのが、『週刊朝日百科日本の歴史別冊・歴史を読みなおす14・環日本海と環シナ海——日本列島の十六世紀』(朝日新聞社刊、一九九五年。この長いタイトル、何とかなりませんか)の「責任編集」の仕事だった。この一冊は、八割近くを私が執筆し、コラム的な記事を、石井米雄・菊池俊彦・高良倉吉・佐藤信・宇田川武久・岩井茂樹・遠藤浩巳の各氏に書いていただいた。ふんだんに図版をもちいてビジュアルな理解をはかった企画のライン・アップに連なって、手前味噌だがそれなりにおもしろくしあがったように思う。 『歴史を読みなおす』シリーズは、刊行物の性格としては雑誌に近く、いつでも書店で手にとれるものではない。それが心残りだったので、「ちくま新書」からお誘いがあったときに、『歴史を読みなおす』のなかで私が執筆した部分を中心にしてまとめたいと提案し、筑摩書房の了解を得た。  稿を改めるにさいしては、大幅に筆を加えて、叙述に一貫性をもたせるよう留意した。『歴史を読みなおす』は図版中心のコンセプトがあったため、叙述としては切れぎれの印象が強かったので、第1章の前半と第6章の大半を書き下ろして、私の主張したい論点が前面に出るようにした。また第2〜5の各章についても、叙述の前提となる一五世紀の状況を書き加え、また各章間のつながりぐあいも改善した。引用史料は可能なかぎり現代語訳して掲げた。  対外関係を研究する者のひとりとして、私が中世に魅かれるのは、国家や制度の枠組みがまだ固まっておらず、国境をまたぐ〈地域〉空間といったものを設定することが可能で、現代にもつながるさまざまな可能性を歴史のなかに探ることができる、そういう時代だからである。そして一六世紀とは、そんな中世が、かなりかっちりした枠組みをもつ近世という時代へと移る変動期である。  中世史家の多くが抱いている近世のイメージは、中世のはぐくんだ可能性を堅苦しい枠にはめて摘みとっていった時代、という暗いものである。私もその例外ではないが、本書では、アジア史や世界史の文脈における巨大な変動のなかに、日本の中・近世移行期を位置づけることによって、近世社会の獲得したもの、達成した水準についても、注意をおこたらなかったつもりである。  本書がはたして、冒頭に記したような「一六世紀から一七世紀前半にかけての、日本列島および周辺地域・海域の歴史」と呼ぶにふさわしい叙述となりえているかどうか、賢明なる読者諸兄の御判断にゆだねるほかはない。  最後になったが、私のヨタ話に何度も忍耐づよく耳を傾けて、少しずつ本書がかたちをなすのに力を貸してくださった、筑摩書房の湯原法史氏には、心よりの感謝をささげたい。また手塩にかけた企画の一冊が、このようなかたちに変身することを快く認めてくださった、朝日新聞社出版局の廣田一氏にも、ひとことお礼を述べたい。   一九九七年七月二一日 [#改ページ] †参考文献 〔第1章[#「第1章」はゴシック体]〕(および本書全体について) 木宮泰彦『日華文化交流史』冨山房 一九五五年 中村栄孝『日鮮関係史の研究 上・中・下』吉川弘文館 一九六五・一九六九年 小葉田淳『中世日支通交貿易史の研究』刀江書院 一九六九年 田中健夫『中世対外関係史』東京大学出版会 一九七五年 西嶋定生『日本歴史の国際環境』東京大学出版会 一九八五年 佐久間重男『日明関係史の研究』吉川弘文館 一九九二年 荒野泰典・石井正敏・村井章介編『アジアのなかの日本史 ㈵〜�』東京大学出版会 一九九二〜一九九三年 濱下武志『朝貢システムと近代アジア』岩波書店 一九九七年 大隅和雄・村井章介編『中世後期における東アジアの国際関係』山川出版社 一九九七年 濱下武志・辛島昇編『地域史とは何か』〈地域の世界史1〉山川出版社 一九七七年 村井章介『国境を超えて 東アジア海域世界の中世』校倉書房 一九九七年 〔第2章[#「第2章」はゴシック体]〕 海保嶺夫『日本北方史の論理』雄山閣 一九七四年 同[#3字下げ]『中世の蝦夷地』吉川弘文館 一九八七年 北海道・東北史研究会編『北からの日本史』〈函館シンポジウム〉三省堂 一九八八年 菊池徹夫・福田豊彦編『北の中世 津軽・北海道』〈よみがえる中世4〉平凡社 一九八九年 網野善彦編『日本海と北国文化』〈海と列島文化1〉小学館 一九九〇年 北海道・東北史研究会編『北からの日本史第2集』〈弘前シンポジウム〉三省堂 一九九〇年 羽下徳彦編『北日本中世史の研究』吉川弘文館 一九九〇年 浪川健治『近世日本と北方社会』三省堂 一九九二年 北海道・東北史研究会編『海峡をつなぐ日本史』〈上ノ国シンポジウム〉三省堂 一九九三年 国立歴史民俗博物館編『中世都市十三湊と安藤氏』新人物往来社 一九九四年 菊池勇夫『アイヌ民族と日本人 東アジアのなかの蝦夷地』朝日選書 一九九四年 小口雅史編『津軽安藤氏と北方世界』〈藤崎シンポジウム 北の中世を考える〉河出書房新社 一九九五年 〔第3章[#「第3章」はゴシック体]〕 伊波普猷『古琉球の政治』一九二二年(全集第1巻 平凡社) 東恩納寛淳『黎明期の海外交通史』一九四一年(全集第3巻 第一書房) 小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』刀江書院 一九六八年 高良倉吉『琉球の時代 大いなる歴史像を求めて』筑摩書房 一九八〇年(新版 ひるぎ社 一九八九年) 窪徳忠『中国文化と南島』第一書房 一九八一年 高良倉吉『琉球王国の構造』吉川弘文館 一九八七年 同[#3字下げ]『琉球王国史の課題』ひるぎ社 一九八九年 紙屋淳之『幕藩制国家の琉球支配』校倉書房 一九九〇年 琉球新報社編『新琉球史 古琉球編』琉球新報社 一九九一年 村井章介『東アジア往還 漢詩と外交』朝日新聞社 一九九五年 斯波義信『華僑』岩波新書 一九九五年 〔第4章[#「第4章」はゴシック体]〕 岡本良知『十六世紀日欧交通史の研究』弘文荘 一九三六年(増訂版 六甲書房 一九四二年) 幸田成友『日欧交通史』岩波書店 一九四二年 李献{璋「嘉靖年間における浙海の私商及び舶主王直行蹟考」(『史学』34巻1・2号)一九六一年 田中健夫『倭寇 海の歴史』教育社歴史新書 一九八二年 種子島開発総合センター編『鉄砲伝来前後 種子島をめぐる技術と文化』有斐閣 一九八六年 外山幹夫『松浦氏と平戸貿易』国書刊行会 一九八七年 岸野久『西欧人の日本発見 ザビエル来日前日本情報の研究』吉川弘文館 一九八九年 五野井隆史『日本キリスト教史』吉川弘文館 一九九〇年 染田秀藤『ラス・カサス伝 新世界征服の審問者』岩波書店 一九九〇年 洞富雄『鉄砲 伝来とその影響』思文閣出版 一九九一年 安野真幸『港市論 平戸・長崎・横瀬浦』日本エディタースクール出版部 一九九二年 宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究 十五〜十七世紀における兵器の受容と伝播』吉川弘文館 一九九三年 高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』岩波書店 一九九三年 J・パーカー(大久保桂子訳)『長篠合戦の世界史 ヨーロッパ軍事革命の衝撃一五〇〇〜一八〇〇年』同文館 一九九五年 村井章介「鉄砲伝来再考」(『東方学会五十周年記念論文集』東方学会)一九九七年 〔第5章[#「第5章」はゴシック体]〕 藤田豊八『東西交渉史の研究・南海編』岡書院 一九三二年 小葉田淳『金銀貿易史の研究』法政大学出版局 一九七六年 村井章介「中世倭人と日本銀」(竹内・村井・川勝・清水・高谷著『日本史を海から洗う』南風社)一九九六年 〔第6章[#「第6章」はゴシック体]〕 朝尾直弘『鎖国』〈日本の歴史 14〉小学館 一九七五年 『講座日本技術の社会史 1〜6』日本評論社 一九八三年 藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』東京大学出版会 一九八五年 荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 一九八八年 R・トビ(速水・永積・川勝訳)『近世日本の国家形成と外交』創文社 一九九〇年 加藤榮一『幕藩制国家の形成と外国貿易』校倉書房 一九九三年 村井章介『中世倭人伝』岩波新書 一九九三年 閔徳基『前近代東アジアのなかの韓日関係』早稲田大学出版部 一九九四年 松浦茂『清の太祖ヌルハチ』白帝社 一九九五年 岩井茂樹「英雄ヌルハチ」(村井章介編『歴史を読みなおす14・環日本海と環シナ海』朝日新聞社)一九九五年 中村質編『鎖国と国際関係』吉川弘文館 一九九七年 村井章介(むらい・しょうすけ) 一九四九年、大阪に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授。九〜一七世紀の日本列島周辺を、貿易をはじめとした交流、それにともなう対外意識などの観点から〈地域史〉や〈世界史〉の文脈の中に読み替えてきたことへの評価が高い。主な著書に『中世倭人伝』『アジアの中の中世日本』『東アジア往還——漢詩と外交——』『中世日本の内と外』など。 本作品は一九九七年一〇月、ちくま新書として刊行された。